世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
到着したシンガポールの空気は、蒸し暑くてどこか慣れない。

優也とその母親が目を輝かせているのを見ると、少しほっとするが、気持ちは張り詰めたままだった。

空港からホテルまでの道中、優也の母親が緊張を隠せずに小声で話す。
「息子が初めての国際舞台なので、何かと心配で…」
それに対して湊は、できるだけ安心させるように丁寧に説明した。
「優也さんはこれまでの練習も本当に頑張ってきました。私も全力でサポートしますので、安心してください。」

ホテルのロビーに着くと、優也は少し固まっていた。
湊は優也の肩を軽く叩きながら、
「大丈夫。まずは落ち着いて。ここが舞台だと思って、いつもの気持ちで臨もう。」
と声をかけた。

準備の合間には、楽屋の音響チェックやピアノの調整も細かく指示。
調律師の川村正義からの引き継ぎは完璧にこなす必要がある。

そんな中、ふとしたタイミングで璃子に電話をかける。

「璃子か?」
湊の声に対して、璃子は少し明るく振る舞っているように感じたが、どこか強張りもあった。

「湊さん、順調ですか?」
「うん。優也の状態は悪くない。そっちはどう?」
「大丈夫。練習してるから。」

その短いやり取りの中に、璃子の背負うものが見え隠れして、湊の胸はざわついた。
それでも、声を荒げたりせず、彼女の気丈な言葉をそっと受け止めた。

「無理するなよ。手、ちゃんと気にして。」
「うん。ありがとう。」

電話を切ると、すぐに湊は優也の前に戻り、静かに言った。
「今からまた練習だ。優也のベストを尽くそう。」

心の奥で揺れる不安を押し込め、湊は二人の未来のために、今日も全力を尽くすのだった。
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