世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
ホテルのリハーサル室。
木目の壁に囲まれた、ほどよく響く静謐な空間。
その中心に、黒く艶やかなグランドピアノが一台、静かに息を潜めていた。

扉の外から、矢代は控えめに中を覗き込む。
音の隙間からふと見えたのは、鍵盤の前で佇む朝比奈璃子の姿だった。

その指は確かに音符をなぞっていた。けれど――
右手をほんのわずかに庇うようにして、時折、肩をわずかにすくめる仕草。

(……疲れてるな)

矢代の脳裏に、つい先日湊が口にしていた言葉が浮かぶ。
「璃子は本番前、いつも自分を異常に追い込む癖がある。だから、見ててやらないと」

そのときの湊の表情が、やけに真剣だったのを思い出す。

璃子の指がふと止まる。
そして、長く静かな溜め息が漏れた。
まるで、心の奥にしまっていた疲れが、音に乗せられずに溢れ出たかのように。

矢代は静かにドアを開け、中へと足を踏み入れる。

「璃子さん、少し休みましょう。手のこと、気になります」

璃子は振り返り、いつもの笑顔を作った。
けれどそれは、ほんの少し、影を帯びているように見えた。

「もう少しだけ、最後までやりたいんです」
言葉とは裏腹に、その声はどこか頼りなくて――それが、なおさら彼女の覚悟を感じさせた。

矢代はそっと頷いた。

「では、午後のリハーサルで様子を見ましょう。無理は禁物です。湊さんも、あなたのことを心配していましたから」

璃子はふっと目を閉じ、静かに息を整えた。
その胸の内にあるのは、きっと“期待に応えたい”という想いだけじゃない。
音楽と再び向き合う覚悟、そしてもう一度、心からピアノを愛したいという祈り。

明日は、きっと大切な一日になる。

彼女の静かな戦いが、誰にも知られぬまま、今ここで続いていた。
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