世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
璃子が再び譜面に目を落とし、指を鍵盤に添えたそのときだった。

――コン、コン。

リハーサル室の扉が軽くノックされ、矢代が振り向く。

「失礼」

聞き慣れた声がして、ドアがゆっくりと開く。

そこに立っていたのは、黒のスーツに身を包み、やや長旅の疲れを残した金城湊だった。
けれどその目は冴えていて、すぐに部屋の空気を読み取ったように静かに歩みを進める。

「湊さん……お帰りなさい」

矢代が思わず声をかけると、湊は小さく頷き、視線を璃子に向けた。

璃子もまた手を止めて、わずかに目を見開いた。

「……湊」

湊は、ピアノの横に立ち、彼女の様子をじっと見つめる。
その目に、驚きも叱責もなかった。
ただ、深く静かな心配が滲んでいた。

「矢代さんが教えてくれたよ。頑張ってたんだって?」

璃子は小さく頷いたが、どこか気まずそうに目を逸らす。

矢代がそっと湊のそばへ近づき、声を落として耳打ちする。

「右手、少し無理してるみたいです。ご本人は大丈夫だと言ってますが……念のため」

湊はわずかに目を細めると、何も言わずに璃子の横にしゃがみ込んだ。

「俺、今朝までシンガポールいたのに、帰ってきていきなり説教から始めたくないんだけどな」

少しだけ笑う口調に、璃子の肩がわずかにほぐれる。

けれど次の瞬間、湊の手が彼女の右手にそっと触れた。

「……少し、休もうか」

その言葉には、甘やかしではなく、信頼があった。

璃子は迷った末に、こくりと小さく頷く。

そして、ピアノの蓋が静かに閉じられた。
まるで、今だけは――音よりも、ひとときの温もりのほうが大事だと、音楽そのものが教えてくれたかのように。
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