世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
リハーサルを終えた控室には、もう誰の気配もなかった。
木の壁に包まれた小さな空間に、湊と璃子の呼吸だけが静かに響く。

ソファに並んで腰を下ろすと、湊はそっと璃子の右手を取った。
細く繊細な指先には、無理をした痕跡がはっきりと残っていた。

「こんなに固くなってる……」

そう言いながら、湊は彼女の指を一本ずつゆっくりと解していく。
指先から掌、そして手首へ──まるで音を奏でるような、静かで丁寧な手つき。

璃子はじっとその様子を見つめていたが、やがてぽつりと漏らす。

「……怒ってる?」

湊は手を止めずに、ふっと息をつく。

「怒ってるわけじゃない。ただ……心配してる」

璃子は視線を落としたまま、小さな声で言った。

「なんか、わかんなくなっちゃって。ちゃんと弾けてるのか、自信が持てないの。前より、うまくやろうとするほど、怖くなるの。……おかしいよね」

湊は彼女の手をそっと包み、親指で手の甲をゆっくりなぞった。

「おかしくないよ。うまくなったから、怖くなっただけ。
 音が届くようになったからこそ、届かない日が怖くなる。……俺もそうだった」

璃子は小さく目を見開いて、彼の顔を見上げた。

「……湊も?」

「うん。大事にしたいものが増えたら、怖くなるのは当たり前だよ」

その言葉が、璃子の胸に静かに染み込んでいく。

湊は彼女の手をそっと口元に持ち上げ、小さくキスを落とした。

「俺のいない間、よく頑張った。もう一人で抱えなくていいよ」

璃子は少しだけ潤んだ目で笑って、湊の肩に身を預ける。

「……じゃあ、もう少しだけ、わがまま言ってもいい?」

「いいよ。今日は甘やかす日だから」

そっと肩を抱き寄せた湊の体温に、璃子の硬くなっていた心が、ゆっくりとほどけていく。

静かな夜の控室で、ふたりだけの時間が流れていた。
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