世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
ホテルの控室。
シークレットゲストとしての役目を終えた璃子が、舞台袖から戻ってきた。

背中を汗がつたっている。
緊張のせいで手のひらはまだじっとりとして、息もうまく整わない。
控室のドアを閉めた瞬間、張りつめていた糸が、ぷつんと切れた。

「湊……っ」

彼の姿を見つけたその一秒後には、もう抱きついていた。
心臓の音がうるさすぎて、何かを言う余裕なんてなかった。

「……ほんとに……緊張した……」
璃子はうわ言のように呟いた。

湊は目の前の彼女をしっかりと腕に受け止める。
その後ろで様子を見ていた矢代と目が合い、無言でうなずき合うと、矢代はそっと気配を消すように部屋を出た。

静かになった控室に、二人だけが残された。

璃子は湊の胸元に顔をうずめたまま、息をゆっくり整えていく。

「おかえり」
湊の声は、それだけで肩の力が抜けるほど穏やかだった。

「……最後の曲、もう指が震えてて……途中、音が消えそうだった……」
消えそうだったのは、音じゃなくて、きっと自分自身。

「でも弾ききったじゃん。すごくよかったよ。…ほんとに、よく頑張った」

湊は彼女の髪をそっと撫で、汗を拭ってやる。
璃子の指先をひとつひとつ、確かめるように包み込むようにして触れた。

「ちゃんと動く……?」
「……うん、大丈夫……たぶん……ちょっと、震えてるけど」

そう言いながら、璃子はかすかに笑った。
目元には、うっすらと涙の光が滲んでいる。

「じゃあ、もうちょっとだけこうしてて。…な?」

湊は璃子の指に軽くキスを落としながら、彼女をそっとソファに導いた。

疲れきって、でもどこか満たされた顔で、璃子は湊の隣に身を預ける。
この夜、ようやく彼女は“成功した”実感を抱いて、自分を許せそうな気がしていた。
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