世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
着物の帯を解くと、胸のあたりがすっと軽くなった。
深く息を吸い込むと、思っていたよりも疲れていたことに気づく。
鏡の前に立ち、帯や重ね襟を丁寧に外していくうちに、指がふと止まった。

――泣きそうだ。

喉の奥が熱くなり、目の奥がじんとした。
けれど、ここで泣くわけにはいかないと、何度もまばたきをしてこらえる。

涙なんて、子どものころから母の前で一度も見せたことがない。
今さら、どうして。

静かに着物を脱ぎ、結花が誕生日にくれた、淡いベージュのワンピースを手に取る。
やわらかな手触りが、指先にやさしく馴染む。

鏡に映る自分に袖を通していく。
大げさな装飾はないけれど、ラインがきれいで、肌映りが良くて――なにより、私が「好き」と思える服。

姿見の前で、そっと一歩踏み出す。

「……この私が、一番いい」

小さくつぶやいて、にこりと微笑んだ。
誰かの理想じゃなくて、母の望む“優等生”でもなくて。
肩肘張らずに、ただ“私らしい”私。

コンクールのことなんて、ほんとはもう、どうでもよかった。
フランスに行けたって行けなくたって、正直どっちでもよかった。

あんなに頑張ってきたのに――そう思う自分もいるけれど、
もうピアノは趣味でいい、週に一度、音を楽しむくらいでいい。
本当は、洋服が好き。色や素材を選ぶのが好き。

できることなら、アパレルショップで働いて、
誰かと一緒に「似合うね」って笑い合う毎日を送りたいと、ずっと思っていた。

「……今だけ、少しだけでいいから」

ふと、彼の顔が浮かんだ。
あのまっすぐなまなざしと、くしゃっと笑う声。

「湊さんの前で、自分らしくいられたら……それだけで、私はまた明日を迎えられる」

声に出したわけではなかった。
けれど、その思いは、心の奥底にしっかりと根を張っていた。

璃子は、鏡の中の自分にもう一度微笑みかけると、ゆっくりと部屋を出た。
すこしだけ、軽くなった足取りで。
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