世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく

深淵(しんえん)の抱擁

スイートルームの奥。
カーテンの隙間から、夜景がそっと覗いている。
煌びやかな街の灯りが、遠くの星座のように静かにまたたいていた。

シャンパンの栓が、やわらかく弾ける。
その音さえ、今夜はどこか穏やかに感じられる。

テーブルには、小さなホールケーキと、璃子の好きなレモンタルト。
ほのかに広がる甘酸っぱい香りが、心の奥をほぐしていく。

湊は、隣に座る璃子のそばに、そっと腰を下ろした。

「……お疲れさま。本当によく頑張ったね」

そう言いながら差し出したのは、小さなジュエリーボックス。
深いネイビーの地に、控えめな金文字が上品に浮かんでいる。

璃子は、その箱を見つめたまま、小さくつぶやいた。

「これ……あのときの、ネックレスと同じブランド」

「うん。あのとき、君が一番長く見ていたシリーズ。ずっと、覚えてた」

蓋を開けると、そこには繊細なピアスが一対。
月の雫のような淡い光をたたえた真珠と、優雅なゴールドのライン。

璃子は、言葉を失ったまま、そっと目を伏せた。

「……綺麗すぎて、つけるのが惜しいくらい」

「でも、つけて。君のために選んだんだから」

湊は、彼女の髪をそっとかきあげる。
その手つきは、まるで譜面にやさしく音を置くように、丁寧で静かだった。

そっと、ピアスを耳に通す。

「……似合ってる」

その一言が、胸の奥でやわらかく解けていく。
璃子は、そっと湊の肩に頭を預けた。

「今日が……今日でよかった」

「うん。俺も、そう思う」

窓の外では、夜景が変わらず静かに輝いている。
言葉よりも深く、あたたかなものが、ふたりの間にそっと流れていた。

明日になれば、また別の現実がやってくる。
けれど今だけは、何も急がず、ただこのひとときを――
寄り添って、味わえばそれでいい。

遠くの観覧車が、ゆっくりと回っている。
ふたりの心もまた、同じ速度で、静かに動いていた。
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