世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
しん……とした静けさが、部屋を包み込む。
外では夜風がカーテンを揺らしているはずなのに、まるでこの場所だけが時間から切り離されたみたいだった。

湊は、璃子の髪をそっと指で梳いた。
背中に腕をまわしながら、体の熱が冷めないように、優しく包み込む。

「……痛くなかった?」

しばらくして、低く抑えた声が、璃子の耳元に落ちる。
彼の声には、心からの優しい心配が込められていた。

璃子は、かすかに首を振る。
声は出せなかった。

喉が乾いていたし、何より、自分の身体の奥でまだ湊の熱が残っているようで――何かを言葉にするには、早すぎた。

それでも、頬を彼の胸にすり寄せることで、気持ちを伝えた。

「……そっか。ありがとう」

湊の息が、璃子の髪にそっとかかる。
体を離すことなく、彼は自分の手を彼女の腰に、そして背中に回して、撫でるでもなく、ただそこにいるように添える。

璃子は湊の胸の音を聞いていた。
深く、一定に刻まれるリズムが、まるで子守唄のように、少しずつ彼女の緊張をほどいていく。

(……こんな風に、誰かと過ごす夜があるなんて――)

胸の中で、どこか信じられない思いがじわりと広がる。
怖くなかったとは言えない。
けれど、それ以上に、湊の声も、手も、目も、すべてが安心できる温度だった。

「……璃子」

再び名前を呼ばれ、璃子は小さく顔を上げた。
その目は、微かに潤んでいたかもしれない。

けれどそれを、彼は何も言わず、ただそっとキスを落とす。

おでこに。瞼に。頬に。唇に。

確かめるように、でも焦らず、もう何も急かさない。

「……眠くなった?」

問いかけに、璃子はまた小さく頷いた。
ほんの少し前まで、身体の奥が熱を持って震えていたのに、今はもう、ゆるやかな眠気が全身を包んでいる。

湊はそれを感じ取って、シーツを優しく掛け直す。
そして、自分の腕の中に彼女を抱いたまま、そっと目を閉じた。

眠る直前、璃子はふと思った。
あの音――ピアノの、湊の音。
今日、ようやくあの音の理由が、わかった気がした。

あたたかくて、深くて、決して置いていかない音――
それは、湊そのものだった。
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