世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
朝食を終え、部屋に陽光が柔らかく差し込む中――
時計は、いつの間にか八時を回っていた。

湊のスマートフォンがテーブルの上で震え、彼が応じると、画面には「矢代正輝」の名前。
「はい、矢代さん。お世話になっております」
敬語で応じる湊の声は、どこか柔らかい。

『ホテル外の騒ぎは、夜明け前よりはだいぶ落ち着いてきました。ですが、正面玄関はまだ目立ちますので、現在裏口に回してタクシーを一台手配しています。あと十五分ほどで準備できるかと』

「ありがとうございます。ご対応、助かります」
湊が静かに応じたそのとき、璃子が椅子からそっと身を乗り出した。

小さな声で、彼の耳元に唇を寄せるようにして囁いた。
「……ねえ、わがまま言ってもいい?」

湊は視線だけで彼女に応える。
その目に込められた「もちろん」の意味を読み取ったのだろう。璃子は、少しだけ唇を噛みしめてから、ぽつりと呟いた。

「まだ帰りたくない……デート、してないから」

その言葉に、湊の胸がかすかに疼いた。
確かに、忙しいスケジュールのなかで、ふたりが恋人同士として並んで歩いたことなど一度もなかった。
想いは深まっても、時間を共有する“日常”は、まだなかったのだ。

「……矢代さん」
少し声色を変え、湊は再びスマートフォンを耳に当てた。
「実は、少しだけ外で時間を過ごせないかと……璃子さんが、そう望んでいまして」

『……それは、つまり』

「はい。デートです」
一瞬の沈黙ののち、湊は苦笑混じりに付け加える。
「業務外のご相談とは承知しておりますが、何か安全に動ける方法、ございますでしょうか」

電話の向こう、矢代の吐息がわずかに聞こえた。
すぐさま応えるでもなく、かといって拒むでもない、考える間の静寂。

やがて彼の声が戻ってきた。
『少々お待ちください。すぐに近隣の状況と連携します。もし許されるなら、おすすめの場所もいくつかございます。人通りが少なく、写真にも撮られにくいルートで』

「助かります。本当に、恐縮です」

『いえ……おふたりの関係を大切にすること、それもまた“仕事”のひとつですから』

少しだけ、矢代の声音に笑みが混じっていた。
それが単なる冗談ではなく、彼なりの心遣いだということを湊はすぐに理解する。

電話を切ると、湊は璃子のほうへ身体を向けて、目元だけで微笑んだ。
「……ちょっとだけ、付き合ってもらおうか。俺の初デート」

璃子は驚いたように目を丸くして、それから、こっくりと頷いた。
胸の奥が、ほんのりと温かくなる。
ふたりにとって、やっと始まる“恋人らしい時間”が、静かに動き出そうとしていた。
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