世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
夕暮れが差し始めたKANEROグランドホールの正面玄関前。

格式ある白い大理石のエントランスには、演奏会の余韻を追うように報道陣のカメラが集まり、フラッシュが静かに光っていた。

璃子は、黒のドレス姿のまま、湊の隣に並んで立っていた。
舞台上とは違い、少し緊張した表情。

それでも背筋はまっすぐ、けれど柔らかさも忘れない——そんな凛とした佇まいだった。

報道関係者たちが、ほどよい距離を取りながら問いかける。

「朝比奈さん、今日は本当に素晴らしい演奏でした。初のチャリティー舞台ということですが、率直なお気持ちを聞かせてください」

璃子は一呼吸置いて、穏やかに答えた。

「ありがとうございます。…今日の演奏は、これまでとは少し違う想いで臨みました。
上手に弾くことよりも、“届けたい”気持ちを大切にしたかったんです。
それが少しでも伝わっていたら、嬉しいです」

やわらかい声の中に、静かな自信がにじむ。
その横で、湊は何も言わず、彼女を見守るように立っていた。

「演目も、クラシックだけではなくジブリや童謡など多彩でしたが、選曲はご自身で?」

「はい。…今日は子どもたちもたくさん来てくれていたので、“一緒に歌ったり、心の中で口ずさんでもらえるもの”を意識しました。
音楽って、“誰かの特別”であるよりも、“誰にでも届くもの”であってほしいなって、ずっと思っていたので…」

それは、表立って語られることの少なかった、璃子自身の信念。

言葉を選びながらも、そっと胸の内をのぞかせるような言い回しに、記者たちも自然とメモを取る手が緩む。

「KANEROの専属ピアニストとして、今後の活動に向けた意気込みは?」

一瞬、璃子の視線が隣の湊と軽く交差する。
湊は小さくうなずいた。

「自分ひとりの力では、ここに立てなかったと、今日改めて感じました。
なので、これからも“支え合って音をつくっていく”という姿勢を、大事にしたいです。
それがどんな形であっても、“音が誰かの居場所になれるように”。そういう音楽を、届けていきたいと思っています」

その瞬間、少し離れた場所で控えていた矢代正輝が、さりげなく一歩前に出た。

インタビューが長引けば、璃子の体力にも関わる——そう察したのだろう。

彼は小さく手を挙げて、無言で記者たちに“あと数問で”というサインを送る。
目立たぬが、プロの仕事だった。
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