世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
コンサートを終えて数時間。
華やかな音も、あたたかな拍手も、すっかり遠のいた深夜のグランドホール。
客席は暗く、照明は舞台だけが柔らかく灯っている。
静まり返った空間には、誰の気配もなく、ただそこに残されているのは、今夜の空気の残り香。
その舞台の中央にある、黒いグランドピアノの前。
璃子と湊が、肩を寄せ合って腰かけていた。
湊の片腕が、璃子の背中をそっと抱き込む。
璃子も自然に、湊の腰に手をまわす。
しばらくの沈黙ののち、璃子が、静かに言った。
「……ねえ、弾こうか。あの曲」
湊は一瞬だけ目を細めて、それから微笑む。
「……うん。覚えてるよ、もちろん」
あの日、璃子が全てを投げ出してKANEROに来た日。
会社のロビーにあったピアノで、湊と初めて連弾した——
モーリス・ラヴェル《マ・メール・ロワ》より〈眠れる森の美女のパヴァーヌ〉。
正直、ふたりのスタイルには少し合わなかった。
ラヴェルの硬質な響きと、優美なライン。
それでも——だからこそ、特別だった。
ひとつの椅子に並んで座り、湊が低音、璃子が高音。
そして最初の音が、そっと、空に落とされる。
ゆっくりと、静かに。
まるで眠る前に交わす子守唄のような旋律が、ホールの天井に滲んでいく。
楽譜はない。
でも、指は覚えていた。
心が先に音を知っていた。
ふたりで弾くとき、ほんの小さな息づかいさえも音楽になる。
どちらかが急げば、もう一方が寄り添う。
どちらかが迷えば、そっと導く。
——それは音のなかの会話。
言葉よりも深く、静かに伝わる確信。
終盤、旋律が少しだけ高く揺れて、最後は淡く消えるように音がほどけていく。
音が消えたそのあとも、ふたりはしばらく指を鍵盤の上に残したまま、互いの肩の温度を感じていた。
そして、璃子がぽつりとつぶやく。
「……本当は、ちょっと不安だったの。今日」
湊は、短く返す。
「わかってたよ。でも……」
言いかけた言葉は、ピアノの余韻に溶けた。
代わりに、璃子の髪に唇を触れるように寄せ、そっと額を重ねる。
誰もいないホール。
でも、ふたりだけの舞台。
その空間に静かに残るラヴェルの旋律は、まるでこう言っているようだった。
——これは、過去の悲しみではなく、今ここにある“祝福”の音楽だと。
やがて、ふたりは立ち上がり、並んでピアノの蓋をゆっくりと閉じた。
重なる手のあたたかさが、音よりも長く心に残っていた。
華やかな音も、あたたかな拍手も、すっかり遠のいた深夜のグランドホール。
客席は暗く、照明は舞台だけが柔らかく灯っている。
静まり返った空間には、誰の気配もなく、ただそこに残されているのは、今夜の空気の残り香。
その舞台の中央にある、黒いグランドピアノの前。
璃子と湊が、肩を寄せ合って腰かけていた。
湊の片腕が、璃子の背中をそっと抱き込む。
璃子も自然に、湊の腰に手をまわす。
しばらくの沈黙ののち、璃子が、静かに言った。
「……ねえ、弾こうか。あの曲」
湊は一瞬だけ目を細めて、それから微笑む。
「……うん。覚えてるよ、もちろん」
あの日、璃子が全てを投げ出してKANEROに来た日。
会社のロビーにあったピアノで、湊と初めて連弾した——
モーリス・ラヴェル《マ・メール・ロワ》より〈眠れる森の美女のパヴァーヌ〉。
正直、ふたりのスタイルには少し合わなかった。
ラヴェルの硬質な響きと、優美なライン。
それでも——だからこそ、特別だった。
ひとつの椅子に並んで座り、湊が低音、璃子が高音。
そして最初の音が、そっと、空に落とされる。
ゆっくりと、静かに。
まるで眠る前に交わす子守唄のような旋律が、ホールの天井に滲んでいく。
楽譜はない。
でも、指は覚えていた。
心が先に音を知っていた。
ふたりで弾くとき、ほんの小さな息づかいさえも音楽になる。
どちらかが急げば、もう一方が寄り添う。
どちらかが迷えば、そっと導く。
——それは音のなかの会話。
言葉よりも深く、静かに伝わる確信。
終盤、旋律が少しだけ高く揺れて、最後は淡く消えるように音がほどけていく。
音が消えたそのあとも、ふたりはしばらく指を鍵盤の上に残したまま、互いの肩の温度を感じていた。
そして、璃子がぽつりとつぶやく。
「……本当は、ちょっと不安だったの。今日」
湊は、短く返す。
「わかってたよ。でも……」
言いかけた言葉は、ピアノの余韻に溶けた。
代わりに、璃子の髪に唇を触れるように寄せ、そっと額を重ねる。
誰もいないホール。
でも、ふたりだけの舞台。
その空間に静かに残るラヴェルの旋律は、まるでこう言っているようだった。
——これは、過去の悲しみではなく、今ここにある“祝福”の音楽だと。
やがて、ふたりは立ち上がり、並んでピアノの蓋をゆっくりと閉じた。
重なる手のあたたかさが、音よりも長く心に残っていた。