世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
調律が終わる頃には、外はすっかり夕方の光になっていた。
三人はダイニングに移動し、木製の椅子に腰かけて湯気の立つ紅茶を手にしていた。

話の流れで、自然とコンクールの話題が出た。

「調子はどうなの?」と創が聞く。
その声は、好奇心からくる純粋なもので、どこか子供のようだった。

璃子は少し考えて、ゆっくり答えた。

「……長いことやってると、調子がいいのか悪いのか、よくわからなくなってきて。なんか……無難にこなす、みたいな感じで。母にはとても言えませんけど」

創は笑って、「うん、なんかベテランピアニストみたいなこと言うじゃん」と言った。

璃子はかすかに笑みを浮かべたものの、すぐにうつむいた。
その表情に、わずかな影が差していた。

ふと、湊が口を開いた。

「……ピアノは、好きなんですか? あの、百貨店で自然に見に来てる感じだったし」

璃子は目を伏せたまま、言葉を探すようにして話した。

「まあ、嫌いではないです。弾くのは……楽しいんです。でも、たまに……義務感になるというか」

視線を机に落としたまま、続ける。

「奏でたいから弾いてるんじゃなくて、成績のために弾いてる……そんな感覚から、なかなか抜け出せなくて」

湊は、そっと璃子を見ていた。
まるで、その心の音を聞こうとするように。

創が、ゆっくり頷いた。

「なるほどね。期待がプレッシャーになる気持ち、少しわかるよ」

そう言いながら、紅茶を一口。

「僕も若いころ、“期待の星”なんて言われてさ。ピアノに縛りつけられてる気がしてたんだよね。で、ある日コンクールでミスタッチ連発して、親があきらめてくれて。それでやっと、楽になった」

彼は笑って肩をすくめる。

「それでもピアノの仕事してるんだから……まあ、もはや洗脳だよね」

その言葉に、璃子も思わずくすっと笑った。

湊が、少し拗ねたように言う。

「父さん、俺には“コンクールに出ろ”とか、一言も言わなかったじゃん。……俺は期待されてなかったの?」

創は即座に言い返した。

「当たり前だろ。期待したら逃げそうだったもん、お前」

「逃げるって……」湊が苦笑する。

「いや、あんたさ。あの頃から“こだわりの塊”みたいなとこあって、言えば言うほど逆走しそうだったからね。期待なんてかけたら、かえってつぶすだけだと思ってたんだよ」

湊はあきれたように息をつきつつも、どこか納得したように笑った。

璃子は、そのやりとりを眺めながら、胸の奥にほのかなあたたかさが広がるのを感じていた。

“期待しない”って、なんて自由なんだろう。
“逃げそうだったから期待しなかった”――それは、責めるためじゃなくて、守るための言葉だった。

璃子はそっと湊の横顔を見た。
彼が育ったこの家には、そういうあたたかさが、確かにあった。

湊がふいに璃子に向き直る。

「……それでも、僕は、また弾きたいって思ったんですよ。音が楽しいって思える場所があったから。璃子さんも、もしそういう場所が、まだあるなら……逃げなくていいと思います」

その目は、まっすぐで優しかった。

璃子は、一瞬だけ目を伏せたあと、小さく笑って頷いた。
今はまだ、“答え”じゃなくていい。
ただ、誰かの言葉が、ほんの少し自分を軽くしてくれることもあるのだと、初めて思えた気がした。
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