世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
夜風が、正月らしい冷たさを帯びて吹いていた。
璃子は玄関の灯りの下に立ち、湊と創を見送る。

創がコートを羽織りながら軽く手を振った。

「今日はありがとね。楽しかったよ。若いころを思い出したよ。
それと――うちの息子とも、まあ仲良くしてやってよ。なんせ、末永くお付き合いがありますからね」

湊が「父さん……」と目を細めたときには、
すでに創の手が、ぽんと息子の肩にのっていた。

「お前も、もっと腕を上げないとな。璃子さんから引導渡される前にさ。
お前の腕次第で、彼女のパフォーマンスも決まるんだぞ」

湊は苦笑しながら、軽く片手を上げて応える。

「わかってるよ。気合、入れとく」

璃子は、少し笑いながら首を横に振った。

「そんなにハードル上げないでください。
金城さんは――もう、十分素晴らしい技術をお持ちだと思いますよ」

その言葉に、湊はほんの一瞬、視線を落とし、そして璃子を見る。
その目に、照れと誠実さが並んでいた。

創は「……じゃあ」と言いながら靴を履き、ドアを開ける。

「外商にはきつく口止めしとくから、安心して。
余計なことは喋らせないよ、あの人結構おしゃべりだからな。
……では、また来週ね」

璃子はうなずき、小さく「ありがとうございます」と頭を下げる。

門を出るふたりの背中が、ゆっくりと闇に溶けていく。
湊は、歩きながら一度だけ振り返って、璃子に微笑んだ。

璃子も、小さく手を振り返す。
声はないけれど、胸の中には確かな温度が残っていた。

その夜、璃子は不思議と、ピアノのことを思い出しても、苦しくならなかった。
音が、少しやわらかく思えた。

それは、誰かと過ごした、初めての“誕生日”の夜だった。
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