世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
ホテルのエントランスは、光の粒が踊るようなシャンデリアと、
クリスマスの装飾に包まれていた。

足音すら吸い込むような赤い絨毯の先。

控室へ向かう私は、深紅のドレスに身を包んでいた。

背中の開いたラインは華やかで、舞台映えを意識して選んだ一着。

ドレスも、髪も、メイクも完璧。

それでも、心は冷えていた。

「朝比奈さん、今日も素敵な演奏、楽しみにしていますよ」

声をかけてきたのは、父の古い友人――大石政信だった。

Hotel Ensemble(ホテル・アンサンブル)の文化企画室の室長、音楽催事の支配人のような位置づけだ。

毎年、同じ笑顔、同じ言葉。

「さすが朝比奈のお嬢さん。やっぱり品が違いますね」

その口ぶりは、まるで決まったセリフ。
テンプレートのように、私を褒める。

でもそれは、私の音に向けられたものじゃない。
彼が見ているのは、私の名前。

“朝比奈”という、音楽家の血筋。

私がどんな気持ちで弾くのかなんて、この人には関係ない。

演奏者ではなく、“朝比奈の娘”という肩書きを、
彼は見ている。

それに気づいてから、私はこの会場が、少しだけ、息苦しい。

笑顔を貼りつけたまま、私は静かに会釈した。

そして、舞台袖へと向かう。

ピアノの前でだけ、
私は“私”でいられると思っていた。

けれど今は、それすらも、少しずつ、わからなくなっていた。
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