世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく

舞台の照明が、やわらかく降り注ぐ。

ざわついていた客席が、一気に静寂へと変わった。

私はゆっくりと歩を進め、ピアノの前に腰を下ろす。

深く息を吸って、そっと、鍵盤に指を添える。

ここにいる私は、

“朝比奈璃子”ではなく、

ただの演奏者。

……そう思い込もうとする。

けれど、どれだけ音を重ねても、
胸の奥は冷えたまま。

左手が低音を支え、右手が旋律を紡いでいく。
客席の奥では、誰かが目を閉じて聴いている。
赤ワインを傾けながら、恋人と微笑み合う姿も見えた。

私の音は、その時間のためにある。

なのに、

私の中には何もない。

譜面は覚えている。

呼吸も乱さずに弾ける。

でも、この旋律が何を語っているのか、わからない。

感じることを、やめてしまったから。

いつからだろう。

音楽が、“任務”になったのは。

鍵盤の上を、指が滑るように舞う。
たしかに美しい音が響いている。

けれどそれは、冷たい冬の窓ガラスのように、
どこか透明で、どこか遠い。

――空っぽの心では、音は、ただの音にしかならない。

最後の音が、ホールの天井に吸い込まれていく。

沈黙と、拍手のあいだにある一瞬。
その静けさの中で、私は目を閉じた。

何も残らない。

なにも響かない。

けれど――

それでいい、と、思っている自分が、いた。