世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
ステージに一人で立つと、世界のすべてが遠ざかる。
観客の気配も、舞台袖に佇む湊の姿も、遠く霞んでいく。
ただ、スポットライトの中、自分とピアノだけが、くっきりと浮かび上がった。

ピアノの前に座ると、息を整える。
目を閉じて、頭の中に音を浮かべる。
さっきまでの不安やざわつきが、ゆっくりと溶けていく。

最初の一音に、すべてをかけるつもりで指を置いた。

──静寂。
そして、音が生まれる。

それは、流れるような旋律だった。
一音一音に、感情と意志が込められていく。
何もかも完璧に、技術は研ぎ澄まされ、テンポも表情も一分の隙もない。
内田先生の指導が活きていた。
湊の調律が、支えてくれていた。

けれど、それだけじゃない。
今日は──ただ「上手く弾く」ためにピアノを奏でているわけじゃなかった。

私は、演奏の中にいた。
「私」がこの音に宿っていた。
痛みも、葛藤も、迷いも、愛しさも。
すべてを注ぎ込んだ音が、観客席へと届いていく。

──母のためじゃない。
──賞のためでもない。

ステージに立つ意味が、やっと、わかった気がした。

私はただ、この瞬間、湊がいてくれるこの世界の中で、
自分の音を、ちゃんと届けたかった。

音が上昇し、静かに消えていく。
最後の和音がホールに溶けた瞬間、深く一礼をした。
一切の悔いもなかった。

湊の目を見ると、彼はただ、静かに頷いていた。
それだけで胸がいっぱいになった。

この演奏は、私の人生で、はじめて「自分のため」に奏でた音楽だった。
誰かに認められるためではなく、誰かを思いながら、自分の意志で選んだステージ。

終わったあと、手が少しだけ震えていた。
でもそれは、失敗への恐怖じゃなくて、感情が溢れそうになるのを、抑えていたから。

──ありがとう、湊さん。
あなたがいたから、ここまで来られた。

そして今、初めて心から思う。
音楽が、また、好きになれそう。
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