世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
控室に戻ると、由紀子がすぐに駆け寄ってきた。
「とてもよかったわよ」
わずかに表情を緩め、安堵の息を吐く母。
その言葉に、璃子はどこか引っかかりながらも、素直に頷いた。

湊はといえば、ピアノの蓋でも閉じるような淡々とした仕草で、
「お疲れさまでした」
それだけを言った。

褒め言葉も、評価もなかった。
けれどそれが逆に、璃子にとっては心地よかった。
湊にとっては“演奏の成否”などより、私が私であることが大事なのだと、
そう感じられたから。

***
数分後、次の演奏を控えて、三人はホールへと戻った。
空いている客席の一列に、母、璃子、湊の順で並んで座る。

会場はまだ緊張感に包まれていて、誰もが静かに息を潜めていた。
次の出番の子がステージに現れ、ライトが当たる。
その光が湊の横顔に当たり、わずかに輪郭を浮かび上がらせる。

彼はステージから目を離さず、じっと演奏者を見つめていた。

璃子は、そっとその横顔に視線を送る。
無意識のうちに、口元が緩むのを感じた。
でも母がすぐ横にいることを思い出し、慌てて視線を正面に戻す。

──ばれないように。
──この胸の高鳴りを、悟られないように。

こんな風に、人を見つめることで微笑んでしまうなんて。
ピアノを弾いていない時間のほうが、むしろ胸がざわついていた。

けれどそれは、心地のいい、温かなざわめきだった。

舞台では別の誰かが演奏している。
でも璃子の中では、まだ余韻が残っていた。
あの瞬間、湊がいてくれたこと。
横に立ち、何も言わず見守ってくれたこと。

そのすべてが、今も、胸の奥を静かに満たしていた。

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