世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
母が部屋を出ていくと、静寂が戻った室内に璃子の呼吸だけが響いた。
ふと、彼女は自分の右手に視線を落とし、そっと触れた。

手首に、じんわりと広がる違和感。
いや、前よりも痛みが増している。
まるで、無視し続けていたそれが、今まさに存在を強く主張しているようだった。

「このままじゃ、音にも出てしまうかもしれない…」
璃子は不安が胸を締めつけるのを感じた。

数日前、湊が言っていた言葉が脳裏をよぎる。

「椅子の位置を変えてみるのはどうかな?」

あの人…もしかして、気づいていたのかもしれない。

手元のカレンダーを見つめる。
本番まで、もうすぐ一か月。

けがで練習を休むなんて、絶対に許されない。

母はきっと、痛み止めを打ってでも続けろと言うだろう。
そして、もし自分が倒れでもしたら…きっと麻衣のお世話を諦めて、由紀子がこっちに来るに違いない。

姉の出産は大変だし、母がいれば安心できるのは当たり前。
だから、絶対に由紀子がこちらに向かわないようにしなければ。

それに、フランスのコンクールには、湊と二人で行きたい。
誰にも邪魔されたくない。

璃子の瞳に、決意と焦りが入り混じった光が揺れた。
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