世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
あの子の右手に違和感があるのは確かだ。
でも、今ここでそれを口にしたら、また隠そうとするに決まっている。
何度もそんなやりとりを繰り返してきた。

私にはわかる。
あの子は弱みを見せることを許されないんだ。
だが、それでも構わない。
私はあの子の未来を、何よりも信じているのだから。

国際アルテミスコンクールは、ただの通過点だ。
ここを切り抜けたら、約束された未来が待っている。
あの子が世界の舞台に立つ日は、もうそう遠くはない。

そのためなら、手首の痛みなんて、ほんの一瞬の躓きにすぎない。
痛み止めを打ってでも、あの子には練習を続けてほしい。

私が厳しくしているのは、愛情の裏返しだ。
あの子が夢を諦めるなんて、絶対に許せない。

多少の苦しみは覚悟のうえ。
これがあの子の「使命」なんだと、私は思っている。

だから、今は見て見ぬふりをする。
けれど、その痛みがあの子の演奏に現れたら、私が叱ってでも立ち直らせる。

璃子の人生は私の手の中にある。
彼女の夢は私の夢。
私は、その道を絶対に譲らない。

たとえ、あの子がつぶれそうになっても、私は止めない。
それが母親としての私の覚悟だ。
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