世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
心が、静かに、どこか遠くへ沈んでいった。
何も感じない。
悔しさも、焦りも、怒りも。
まるで水の底に沈んでいるように、音すら鈍く響く。
コンクールまで、あと一週間。
荷造りは母がほとんど終わらせていて、私はただ、決められた時間にピアノの前に座るだけ。
あとは、現地へ向かって演奏するだけ。
それだけのはずなのに、息が浅くなる。
リハビリは進んでいる。
手首の状態も、専門医に診てもらい、湊さんは常に私の演奏を注意深く見てくれた。
わずかな癖や違和感にもすぐ気づいて、無理をさせずに支えてくれた。
――それなのに。
私の音は、母を満足させるものではなかった。
内田先生のレッスン中、母の小さなため息が何度も聞こえてきた。
音を止めるたび、空気がすっと冷えるのがわかる。
それに耐えられなくなったのか、内田先生が優しく言った。
「由紀子さん、しばらくこちらにお預けいただけますか」
母は、薄く笑って立ち上がる。
「ごめんなさい。少し外しますね」
ドアが閉まる音がしたとき、部屋の隅で静かに座っていた湊さんが立ち上がった。
何も言わずに私の隣に来て、そっと肩に手を置く。
「璃子さん、気持ちを落ち着けましょう。
今はただ時間を使うだけじゃ、疲れるだけです」
その言葉は、優しいというよりも、静かで強かった。
本当に私のことを想っている声だった。
「少し休憩しましょうか」
内田先生も、そっと促す。
でも、私はかすかに首を振った。
何も言わず、再び鍵盤に手を置いた。
脳のどこかが命じていた。
止まったら、何かが壊れてしまう。
このまま止まってしまったら、私はもう――。
「もう一度、最初から弾きます」
自分の声が、自分のものとは思えないほど乾いていた。
音を出す。
音楽を奏でる。
ただそれだけのはずなのに、なぜか息が苦しい。
痛みがあるはずの右手の感覚も、もはや遠くなっていた。
弾いているのは指だけで、心はどこか別の場所にあるみたいだった。
湊さんの手が一瞬、私の背中に触れた。
でも私は、その手を受け止める余裕すらなかった。
もう、誰の声も、届かなかった。
何も感じない。
悔しさも、焦りも、怒りも。
まるで水の底に沈んでいるように、音すら鈍く響く。
コンクールまで、あと一週間。
荷造りは母がほとんど終わらせていて、私はただ、決められた時間にピアノの前に座るだけ。
あとは、現地へ向かって演奏するだけ。
それだけのはずなのに、息が浅くなる。
リハビリは進んでいる。
手首の状態も、専門医に診てもらい、湊さんは常に私の演奏を注意深く見てくれた。
わずかな癖や違和感にもすぐ気づいて、無理をさせずに支えてくれた。
――それなのに。
私の音は、母を満足させるものではなかった。
内田先生のレッスン中、母の小さなため息が何度も聞こえてきた。
音を止めるたび、空気がすっと冷えるのがわかる。
それに耐えられなくなったのか、内田先生が優しく言った。
「由紀子さん、しばらくこちらにお預けいただけますか」
母は、薄く笑って立ち上がる。
「ごめんなさい。少し外しますね」
ドアが閉まる音がしたとき、部屋の隅で静かに座っていた湊さんが立ち上がった。
何も言わずに私の隣に来て、そっと肩に手を置く。
「璃子さん、気持ちを落ち着けましょう。
今はただ時間を使うだけじゃ、疲れるだけです」
その言葉は、優しいというよりも、静かで強かった。
本当に私のことを想っている声だった。
「少し休憩しましょうか」
内田先生も、そっと促す。
でも、私はかすかに首を振った。
何も言わず、再び鍵盤に手を置いた。
脳のどこかが命じていた。
止まったら、何かが壊れてしまう。
このまま止まってしまったら、私はもう――。
「もう一度、最初から弾きます」
自分の声が、自分のものとは思えないほど乾いていた。
音を出す。
音楽を奏でる。
ただそれだけのはずなのに、なぜか息が苦しい。
痛みがあるはずの右手の感覚も、もはや遠くなっていた。
弾いているのは指だけで、心はどこか別の場所にあるみたいだった。
湊さんの手が一瞬、私の背中に触れた。
でも私は、その手を受け止める余裕すらなかった。
もう、誰の声も、届かなかった。