世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
玄関の彫刻
朝比奈家の玄関先には、静かな緊張が漂っていた。
並んで立つのは、父・聡一、母・由紀子、金城創、そして璃子と湊。
今日は、璃子と湊がコンクールのためフランスへ出発する日だった。
由紀子もまた、ひとつスーツケースを手にしていた。
娘の麻衣がもうすぐ出産を迎える。しばらくはそちらへ向かう予定だ。
行き先は違えど、同じ朝の旅立ち。
母は、最後の最後まで「やはり自分もフランスに行く」と言い張ったが、父と創がその言葉をやんわりと制した。
「今の璃子には、信頼して任せる時間が必要だ」と創ははっきりと言い、
「自分の足で立たせてやろう」と父が諭した。
そうして、ようやく母も納得した形になった。
「頑張ってきなさい。大丈夫だ」
父・聡一が、璃子の肩に手を置く。普段はどこか遠い存在だったその手が、不器用ながらも温かく感じられた。
「いつも通りやればね、大丈夫ですよ」
創が笑う。湊の父としてではなく、ピアノを知る者としてのまなざしだった。
璃子は無言で頷いた。胸の奥にひそかに熱いものが灯る。
湊は黙って、彼女のスーツケースを受け取った。
「手首に負担をかけないように」――その配慮に、璃子は言葉にできない感謝を覚えた。
湊の手は、今では音楽と同じくらい自分を支えてくれる存在だった。
タクシーの後部座席に乗り込む前、母の視線を感じてふと振り返る。
由紀子は、玄関に立ったまま、じっと璃子を見つめていた。
その表情は、心配と、執着と、愛情と――複雑なものが混ざり合って、まるで言葉にならない彫刻のようだった。
タクシーのドアが閉まりかけたその瞬間、窓越しに母の声が届く。
「……やり抜きなさい」
短く、鋭く、真っ直ぐな言葉だった。
璃子は、返事をしなかった。
できなかった。
でも、その言葉は静かに、彼女の胸の深くに突き刺さった。
この一言が、呪いになるのか、力になるのかは――まだ、わからなかった。
タクシーがゆっくりと動き出す。
璃子の手の中で、楽譜がかすかに震えていた。
並んで立つのは、父・聡一、母・由紀子、金城創、そして璃子と湊。
今日は、璃子と湊がコンクールのためフランスへ出発する日だった。
由紀子もまた、ひとつスーツケースを手にしていた。
娘の麻衣がもうすぐ出産を迎える。しばらくはそちらへ向かう予定だ。
行き先は違えど、同じ朝の旅立ち。
母は、最後の最後まで「やはり自分もフランスに行く」と言い張ったが、父と創がその言葉をやんわりと制した。
「今の璃子には、信頼して任せる時間が必要だ」と創ははっきりと言い、
「自分の足で立たせてやろう」と父が諭した。
そうして、ようやく母も納得した形になった。
「頑張ってきなさい。大丈夫だ」
父・聡一が、璃子の肩に手を置く。普段はどこか遠い存在だったその手が、不器用ながらも温かく感じられた。
「いつも通りやればね、大丈夫ですよ」
創が笑う。湊の父としてではなく、ピアノを知る者としてのまなざしだった。
璃子は無言で頷いた。胸の奥にひそかに熱いものが灯る。
湊は黙って、彼女のスーツケースを受け取った。
「手首に負担をかけないように」――その配慮に、璃子は言葉にできない感謝を覚えた。
湊の手は、今では音楽と同じくらい自分を支えてくれる存在だった。
タクシーの後部座席に乗り込む前、母の視線を感じてふと振り返る。
由紀子は、玄関に立ったまま、じっと璃子を見つめていた。
その表情は、心配と、執着と、愛情と――複雑なものが混ざり合って、まるで言葉にならない彫刻のようだった。
タクシーのドアが閉まりかけたその瞬間、窓越しに母の声が届く。
「……やり抜きなさい」
短く、鋭く、真っ直ぐな言葉だった。
璃子は、返事をしなかった。
できなかった。
でも、その言葉は静かに、彼女の胸の深くに突き刺さった。
この一言が、呪いになるのか、力になるのかは――まだ、わからなかった。
タクシーがゆっくりと動き出す。
璃子の手の中で、楽譜がかすかに震えていた。