世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
飛行機の扉が閉まり、低い音とともに機体がゆっくりと動き始める。
空港の喧騒が次第に遠のいていくにつれ、璃子の胸の奥に静かな緊張が広がっていった。

座席はビジネスクラス。ゆったりとしたシートに深く身を沈めても、心のこわばりはなかなか解けなかった。

湊は隣の席に座り、シートベルトを締めながら、彼女をちらと見た。
その視線は、問いかけではなく、ただそこにいるということを伝えるような、穏やかなものだった。

「長時間のフライトになるから」
湊は低く、静かに言う。
「まずは、できるだけリラックスして。身体を固めてると、余計に疲れるから」

璃子は小さく頷いた。わかっているつもりでも、肩の力はなかなか抜けない。
ふと指先を見ると、無意識に膝の上で手を握りしめていた。

離陸の振動とともに、心も少しだけ浮つく。
湊がさりげなくブランケットを差し出し、背もたれの角度を調整してくれた。
何気ない動作のひとつひとつに、気遣いがにじんでいる。

「眠れそう?」と湊が聞く。

「……ううん。たぶん、まだ」
璃子は首を振る。
気を張っていないと、今にも泣き出しそうだった。

「じゃあ、音楽でも聴く? イヤホン、貸すよ」

「……あとで」

湊はそれ以上何も言わなかった。ただ、席のライトを少しだけ落として、隣で静かに目を閉じた。

彼女の気持ちが落ち着くまで、時間ごと、ただ寄り添おうとしているようだった。
何も強制せず、何も急かさず。

その沈黙が、今の璃子にはいちばんありがたかった。

窓の外に広がる雲海。
どこか別の世界に向かっているような、非現実感。
けれどそれは、現実から逃げているのではなく――

この先に、ほんとうの自分を探しにいくような、そんな旅路の始まりだった。

湊のそばで、璃子はゆっくりとまぶたを閉じた。
初めて少しだけ、力を抜いて。
目覚めた先に、何か変わっていると、信じたいと思いながら。
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