世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
ホテルのロビーにはクラシック音楽が静かに流れていた。
重厚なシャンデリアと白を基調としたインテリア。
五つ星の名にふさわしい品格が、そこかしこに漂っている。
フロントでチェックインを済ませ、湊と並んでエレベーターに乗り込む。

鏡張りの壁に映る自分の顔が、どこかぼんやりとして見えた。

――なんか、変。

離陸してから、もう5時間が経ったあたりだったろうか。
身体がずしりと重く、頭の中が薄く霞んでいるような感覚がずっと続いていた。

眠気とも違う。
熱でもあるのかとも思ったが、寒気はない。
ただ、だるい。
息苦しいほどじゃないけど、思考のピントがぼやけている。

「……疲れてるだけ。フライトが長かったから」
璃子は自分に言い聞かせるように、目を閉じた。

部屋に入り、スーツケースをベッドの隅に置くと、湊がノックの音と共にやって来た。
タブレットを片手に、明日のスケジュールを確認しに来たのだ。

「璃子さん。今から少し、動きの確認をしましょう。時差調整のためにも、今日の午後は軽いリハーサルに行く予定です」

彼の声がすぐそばで聞こえているのに、まるで遠くから話しかけられているようだった。
璃子は窓辺に立ち、ぼんやりと外を見ていた。
石畳の路地、カフェのテラス。
異国の街はどこか映画の中のようで、どこか自分とは関係のない場所のように感じた。

「璃子さん?」
湊の声が少しだけ鋭くなる。
「……聞いてますか?」

「えっ……と、なんでしたっけ。ごめんなさい」
璃子は慌てて振り向く。

湊は言葉を繰り返しながら、彼女の表情をじっと見た。
心配そうな瞳。
だが、それをすぐに問い詰めることはせず、淡々とスケジュールの話に戻っていく。

璃子は、気を引き締めて耳を傾けた。
「大丈夫。私は大丈夫」と自分に言い聞かせながら、相槌を打ち、時おりメモをとるフリをした。

一通りの説明が終わると、湊はタブレットを閉じて立ち上がる。

「では、夕食の時間にまた伺いますね」

璃子は思わず尋ねた。
「……夕食も一緒、なんですか?」

湊は一瞬だけ目を細め、そして真剣な口調で答えた。

「はい。フランスでは一人にしないようにと、父と朝比奈さんのご両親からも言われています。軽犯罪も多いですし、一人での外出は控えてください」

「……そんなに?」

「はい。観光地でも油断は禁物です。璃子さんを守ることも、僕の仕事ですから」

その言葉に、璃子は小さく笑った――笑った“ふり”だった。
心の中では、得体の知れない不安がじわじわと広がっていた。

部屋のドアが閉まったあと、璃子はゆっくりとベッドに腰を下ろした。
目を閉じると、湊の言葉と、母の「やり抜きなさい」が交互に胸を打つ。

――私、ちゃんと弾けるのかな。
――この体で、あと五日後に……。

窓の外はもう夕暮れに染まりつつあった。
春のフランス。
まだ陽は落ちきっていないというのに、璃子の心はすでに、深い夜に沈んでいるようだった。
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