世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
夕食前、ホテルの地下フロアにある音楽スタジオに足を運んだ。
そこには確保してもらったグランドピアノが一台、静かに佇んでいた。
照明の落ち着いた部屋。
磨かれた黒いボディに、自分の顔がかすかに映っている。
璃子は深呼吸し、鍵盤にそっと手を置いた。
指を滑らせるように、スケールを弾きはじめる。ドレミファソラシド――
……違う。どこか違う。
横で準備していた湊も、すぐに反応した。
眉間にしわを寄せ、調律用の器具を取り出すと、呟く。
「……なんだこのピアノは」
璃子は黙って、もう一度スケールを繰り返した。
たしかに、音程がずれている。
しかも、想像以上に。
「これじゃ練習にならないな」
湊の声には、苛立ちというより、プロとしての苛立ちがにじんでいた。
彼は無言で、淡々と調律を始めた。
璃子はその横顔を見つめながら、ふと気づいた。
いつの間にか、身体の内側が、じわりと熱を持っているような感覚。
重だるさが、気力を少しずつ削っていく。
けれど、そんなそぶりを見せては、きっとまた心配させてしまう。
私は大丈夫、まだやれる――そんな虚勢を胸に抱いて、静かに椅子に座った。
しばらくして、湊が工具を置き、璃子のほうを振り向いた。
「……璃子さん。具合、悪いですか?」
一瞬、胸が跳ねた。
図星だった。
その反応が顔に出たのか、自分でも思わず吹き出してしまう。
「えっ、いやいや、そんなこと……」
笑ってごまかしたつもりが、どうにも不自然だった。
湊は優しく笑いながら言った。
「違和感を感じた時点で教えてください。隠されると、助けてあげられません」
その一言に、心がじわりとほどけた。
責めるような言い方ではなく、ただ事実として、寄り添うように。
湊という人はいつもそうだ。
過剰でもなく、無関心でもない。
そのちょうど真ん中にいる。
「……ごめんなさい。ちょっとだけ、だるくて。ぼーっとしてるだけです」
「時差ボケもあるでしょうね」
彼はタブレットを操作しながら続けた。
「今日は消化にいいものを、ルームサービスで手配しておきます。無理して外に出なくてもいいように。……一緒に食べましょう」
その自然な提案に、胸が軽くなった。
いつの間にか、彼のサポートは“ありがたい”を通り越して、“安心”に変わっていた。
「……ありがとう」
璃子は、小さくそう呟いた。
それだけで、少し熱がやわらいだような気がした。
そこには確保してもらったグランドピアノが一台、静かに佇んでいた。
照明の落ち着いた部屋。
磨かれた黒いボディに、自分の顔がかすかに映っている。
璃子は深呼吸し、鍵盤にそっと手を置いた。
指を滑らせるように、スケールを弾きはじめる。ドレミファソラシド――
……違う。どこか違う。
横で準備していた湊も、すぐに反応した。
眉間にしわを寄せ、調律用の器具を取り出すと、呟く。
「……なんだこのピアノは」
璃子は黙って、もう一度スケールを繰り返した。
たしかに、音程がずれている。
しかも、想像以上に。
「これじゃ練習にならないな」
湊の声には、苛立ちというより、プロとしての苛立ちがにじんでいた。
彼は無言で、淡々と調律を始めた。
璃子はその横顔を見つめながら、ふと気づいた。
いつの間にか、身体の内側が、じわりと熱を持っているような感覚。
重だるさが、気力を少しずつ削っていく。
けれど、そんなそぶりを見せては、きっとまた心配させてしまう。
私は大丈夫、まだやれる――そんな虚勢を胸に抱いて、静かに椅子に座った。
しばらくして、湊が工具を置き、璃子のほうを振り向いた。
「……璃子さん。具合、悪いですか?」
一瞬、胸が跳ねた。
図星だった。
その反応が顔に出たのか、自分でも思わず吹き出してしまう。
「えっ、いやいや、そんなこと……」
笑ってごまかしたつもりが、どうにも不自然だった。
湊は優しく笑いながら言った。
「違和感を感じた時点で教えてください。隠されると、助けてあげられません」
その一言に、心がじわりとほどけた。
責めるような言い方ではなく、ただ事実として、寄り添うように。
湊という人はいつもそうだ。
過剰でもなく、無関心でもない。
そのちょうど真ん中にいる。
「……ごめんなさい。ちょっとだけ、だるくて。ぼーっとしてるだけです」
「時差ボケもあるでしょうね」
彼はタブレットを操作しながら続けた。
「今日は消化にいいものを、ルームサービスで手配しておきます。無理して外に出なくてもいいように。……一緒に食べましょう」
その自然な提案に、胸が軽くなった。
いつの間にか、彼のサポートは“ありがたい”を通り越して、“安心”に変わっていた。
「……ありがとう」
璃子は、小さくそう呟いた。
それだけで、少し熱がやわらいだような気がした。