世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
ルームサービスのワゴンが部屋に届いたのは、20時を少し回った頃だった。
サラダに、柔らかく煮込まれたスープ、白身魚のソテー。

消化のいいメニューばかりが並んでいる。
湊がホテルに事前に手配してくれたものだった。

二人は璃子の部屋の小さな丸テーブルを囲み、静かにナイフとフォークを動かしていた。

窓の外には、フランスの夜景。
なのに、心は一つも晴れなかった。

しばらく沈黙が続いたあと、璃子が口を開く。

「……湊さん」

「はい」

「手首のこと……本当は、もっと前から痛かったんです。
 でも、湊さんに話した後、母に言われたんです。
 『痛み止めを飲んでやれなんて、私は言わない』って。
 『でもこれはあなたの未来のため。やり切って後悔しないように』って。
 ……叱咤激励みたいな、そういう言い方で」

フォークを持つ手が、小さく震えていた。
それに気づいても、湊は黙って、次の言葉を待った。

「……最近、自分が何のためにピアノを弾いてるのか、わからなくなるんです。
 由紀子さんのため? 先生の期待に応えるため?
 私の人生って、いつまで他人のレールの上にいるんでしょうね」

笑ったつもりだった。
でも、その声はどこか泣きそうに震えていた。

「このコンクールが終わったら……どんな結果でも、もうやめようと思ってるんです。
 もう十分です。誰かの期待に応えるために、心を空っぽにして弾くのは」

湊は、黙って璃子の方を見た。
彼女の目は、どこか遠くを見ていた。
もう舞台の先ではなく、そのずっと外側の世界を。

「やめたら、前から興味があったアパレルの仕事をしてみたい。
 親に『家から出てけ』って言われたら……アルバイトでも何でもして、食いつないで……
 自分の人生、やってみようって。……そう決めたんです」

その目には、強さと弱さが同時に宿っていた。

「だから、もし本番で、体調が悪くて、演奏がひどくても……もう、いいんです。
 どうなっても。失敗しても。終わっても。全部、もう」

そこまで言って、璃子は俯いた。

ほんの数秒の静寂。
やがて、湊の声が、それを破った。

「……それ、本気で言ってますか?」

低く、静かな声だった。
けれど、その中には、怒りに似た真剣さが宿っていた。

璃子が顔を上げると、湊は真っすぐに彼女を見つめていた。

「具合が悪いのはわかります。手首のことも、心のことも。
 でも、それで“どうなってもいい”なんて、そんな言い方は……俺は、許せません」

「湊さん……」

「あなたの演奏を、初めて百貨店で聴いたとき、心が震えました。
 あなたが自分を隠してまで、もう一度音楽に触れようとしたその勇気を、俺は見てた。
 それを今になって、『どうでもいい』って言われたら……
 じゃああの時のあなたは、なんだったんですか?」

「それは……でも……」

「今のあなたは、逃げようとしてるだけです。
 やめるなら、ちゃんとやり切ってからやめてください。
 失敗しても、全力を尽くして、それでも違うと思ったとき、初めて“卒業”ができる。
 そうじゃないなら、それはただの“逃げ”です」

璃子は、何も言い返せなかった。

湊の言葉は、突き刺すように痛かった。
でも、どこかでわかっていた。
このままじゃいけないって。
今の私は、自分にさえ誠実じゃないって。

「……ごめんなさい」

そう言ったあと、璃子の目に涙が浮かんだ。
それを見て、湊は小さく息を吐き、声を和らげた。

「あなたの人生を、あなたが決めるのは当たり前のことです。
 でも……“どうでもいい”なんて言わないでください。
 俺は、あなたが大事にしてきたものを、大事に思いたい」

その言葉が、静かに胸に沁みた。

もう、誰かに叱ってほしかったのかもしれない。
誰かに、自分のぐらぐらした気持ちを、正面から受け止めてほしかったのかもしれない。

璃子は、ただ黙ってうなずいた。
冷めかけたスープに、やっと手を伸ばす。

味なんて、あまりしなかった。
でも、それでも少しだけ、心があたたまった気がした。
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