世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ぼんやりとした意識の中に滲んで見えた。

喉が痛い。
体が熱い。
寒いのに、汗をかいている。

璃子は、ぼんやりと天井を見上げながら、自分の異変をはっきりと認識した。

「……やば」

声が掠れていた。
頭がぼうっとして、起き上がるのも億劫だ。

そんな時――
ドアの外から、ノックの音。

「璃子さん、起きてますか?」

聞き慣れた声だった。
湊の声は、なぜか最初から“確認”というより“確信”の響きを含んでいた。

璃子は慌てて、乱れた髪をかきあげながらベッドから起きようとするも、ぐらりと体が傾く。

「……すみません、少し……待って……」

けれど、その言葉は届くより早く、ドアが静かに開かれた。

湊は、ホテルのカードキーを手に持ちながら入ってきた。

「やっぱり」

そう言った彼の表情は、驚きよりも“案の定”といった面持ちだった。
すでに薬と水のボトル、冷えピタまで小さな袋に入れて持ってきている。

「昨日の顔色、明らかにおかしかったですから。
 フロントには部屋の予備キーの件も、昨日のうちに話を通しておきました」

「ぬ、抜け目なさすぎ……」

璃子は冗談めかして言ったものの、そのままくしゃみを一つ。

湊はため息をひとつついてから、冷えピタのパッケージを破った。

「抜け目ないんじゃなくて、慣れてるんです。
 舞台前に無理して体壊すピアニスト、何人も見てきましたから」

そう言いながら、璃子の額に冷えピタをそっと貼る。

その手つきは思いのほか優しくて、璃子は抵抗する気も起きなかった。

「……ごめんなさい。昨日の夜も、変なこと言って」

「いえ」

湊は首を横に振った。

「俺の前では、変なこと言ってもいいんです。
 ただ、熱まで出されると、俺もさすがに笑えない」

彼の声は穏やかだったが、ほんの少しだけ、眉間に皺が寄っていた。

璃子は、ふとその顔を見上げた。

――こんなに、誰かに気をかけられたこと、あったかな。

「熱、何度ありますか?」

「……わかんない。でも、たぶんまあまあ高いです。ぼーっとしてて」

「すぐにフロントに頼んで、医師の往診を手配します。
 栄養ドリンクと、スポーツドリンクも手配します。
 今日はもう一切、練習はなし。おとなしく寝ててください」

「……湊さん、なんか、マネージャーみたい」

「“なんか”じゃないです。マネージャーも、調律師も、現地サポートも、ぜんぶ俺です」

「……頼もしいなぁ」

璃子はぼそりと呟いて、再びベッドに横たわった。

湊が持ってきた冷たい水を受け取り、一口。
その瞬間、喉の痛みと引き換えに、少しだけ意識が戻っていく。

ほんの少しでも。
湊の存在が、この異国の地で、璃子の支えになっていた。

そして、彼女はもう一度目を閉じた。
外の光は柔らかく、どこか優しかった。
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