世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
気がつけば、窓の外はほんのりと茜色に染まっていた。

午後の眠りから目覚めた璃子は、額に触れて、さっきまでの熱が引いていることに気づく。
体の重さも、少しずつだが軽くなっていた。

ベッドサイドには、湊が静かに座っていた。
手には文庫本と、冷えたペットボトルの水。

「起きましたか」

湊は本を閉じて、椅子から立ち上がる。
璃子が微かに頷くと、彼は安心したように笑った。

「熱、三十七度ちょうどまで下がってます。薬、効きましたね」

璃子はベッドの上でゆっくりと体を起こす。

「……すみません、ずっと付き添ってくれて」

「別に。寝てる間、俺も半分寝てましたし。
 それに、具合の悪い人を放っておくほど、冷たい性格じゃないです」

からかうような言い方に、璃子は少しだけ笑った。

そのタイミングで、ルームサービスのワゴンが静かに部屋に運ばれてきた。
湊がサッと受け取り、テーブルを整える。

「夕食、軽めにしてもらいました。スープとパン、それから、野菜のリゾット」

「……優しいですね、湊さん」

「調律師兼付き添い兼、メニューの選定係なんで」

そう言って器を差し出す彼の手に、璃子はそっと自分の手を添えた。

「ありがとう、ほんとに。いてくれてよかった」

湊はその手をしばらく見つめてから、やわらかく微笑んだ。

「そんなふうに言われると、付き添いがいがあるってもんです」

ふたりの間には、穏やかな沈黙が流れた。
窓の外には、パリの夕焼けが静かに広がっている。

璃子はスプーンを口に運びながら、ふと考えていた。

――この人と一緒なら、何があっても、きっと乗り越えられるかもしれない。

熱が下がったばかりの身体に、やさしく染みる食事と、その隣にいる人の存在。
それは、長い闘いの前の、ほんのつかの間の、心安らぐ時間だった。
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