世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
翌朝。
璃子は、初日に訪れたホテル地下の音楽スタジオに再び足を踏み入れていた。

前日までの熱が嘘のように引き、身体は少し軽く感じた。
けれど、まだ完全とは言えない。無理はできないのは自分でもわかっていた。

スタジオにはすでに湊の姿があり、スコア(楽譜)とペン、そして体温計とミネラルウォーターのボトルが用意されている。

「体温、さっきより少し上がってるけど、誤差の範囲です。
 でも絶対に隠さないでください。
 もし隠したら――隅々まで調べますから」

冗談とも本気ともつかない声に、璃子は思わず吹き出しそうになる。

「……こわいです、それ」

「真剣ですから」

そう言って湊は淡々とノートに何かを書き込む。
その姿に見守られながら、璃子はピアノの前に腰を下ろした。

鍵盤に手を置き、深呼吸する。
視線を譜面に落とすよりも先に、まずは感覚を確かめるように、スケールを弾く。
一音ずつ、丁寧に。

なめらかに音が連なる。
それは、昨日まで熱で寝込んでいた人間のものとは思えない、いつもの璃子の音だった。

湊は横で黙ってその音を聞いていた。
璃子の指が鍵盤の上を滑るたびに、彼は微かに頷き、表情を緩める。

しばらく経って、彼の手がそっと、璃子の右手に触れた。
驚くほどやさしい動きで、手首の状態を確認する。

「痛みは、どうですか?」

璃子は少し考えてから、正直に答える。

「……痛みは、ありません。
 ただ……解熱剤、まだ飲んでるので……鈍くなってるだけかもしれません」

湊は小さく「うん」と頷いた。

「腫れたりはしてないし、見た感じも大丈夫そう。
 でも、違和感があったら、絶対に、すぐ言ってください」

「はい……」

「あと、念のため。現地の整形外科の医師にも、もしもの時は診てもらえるように手配してあります。
 無理して一生弾けなくなるほうが、ずっとこわいんですからね」

璃子は思わず、彼を見つめてしまう。
その目は真剣だった。

自分の体を、自分以上に気にかけてくれている人。
それが、今すぐ隣にいる――。

「……ありがとうございます」

その言葉しか、うまく出てこなかった。

湊はにこりともせず、「じゃあ、もう少しゆっくりめのテンポで通してみましょう」と言った。

譜面台に立てかけられた楽譜の一番上には、バッハ《平均律クラヴィーア曲集第1巻》より 第8番 変ホ短調 BWV 853。

“祈りのように始まり、構築美の中に静けさをたたえる”──璃子にとって、心を整えるような音楽だった。

続いて控えるのは、ドビュッシー《映像 第1集》より《水の反映》。

“自己を解き放ち、感覚で“今”を奏でる”選曲。
異国の空気の中で、璃子の音はより自由に広がっていくはずだった。

そして最後に待つのは、ショパン《バラード第4番 ヘ短調 作品52》。

これまでのすべてを注ぎ込む“物語の頂点”。
崩れ落ちるような終結部に、璃子は自分の「殻を破る瞬間」を重ねていた。

璃子は小さく息を整えて、再び鍵盤に向き直る。

緊張も、不安も、ゼロではない。
でも、目の前の音だけを見つめていけば、きっと、前に進める。

今日もまた、音楽と向き合う一日が、始まろうとしていた。
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