世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
日を追うごとに、璃子の身体は明らかに回復していった。
熱が引き、食欲も戻り、手首の痛みも落ち着いた。

体調だけじゃない。
湊の支えは、音楽的な面でも彼女を確かに変えていた。

毎朝、彼は必ず健康チェックを欠かさず、体温と表情と、言葉にしない呼吸の変化までを見抜く勢いで彼女を見つめる。
どんな小さな違和感も許さない、そんな真剣なまなざしに、璃子は次第に「隠す」という選択肢を失っていった。

リハーサルでは、初日とは比べものにならないほど音が冴え渡る。
ホテルのスタジオにこもり、毎日、朝と午後に集中して仕上げていく曲。

ときには、湊がピアノの裏に回って音の粒立ちを確認し、椅子の高さや角度まで微調整してくれる。
ステージでの出入りの動線、舞台袖の照明の明るさ――そのすべてを、湊はチェックリストにして管理していた。

彼は、まるで自分のことのように、いや、それ以上に必死だった。

そして、本番前日。

本番会場となるコンサートホールでのリハーサル。

グランドピアノの前に座り、ホールの空気を感じながら一通りの演奏を終えた璃子は、ふう、と静かに息を吐いた。
天井の高いホールに、響き渡った自分の音。
それを、舞台袖で聴いていた湊の目が静かに細まっている。

璃子は、ゆっくりと湊の方へ歩み寄った。

「湊さん……」

彼が顔を上げる。

「私、あの日……“どうでもいい”なんて言いましたけど。
 ……やっぱり、あれじゃだめだなって思いました」

湊は一言も挟まず、彼女の言葉を待つ。

「こんなに私のために動いてくれて、支えてくれて。
 それに、ピアノも……この曲も。
 “どうでもいい”なんて言えるはずがない。
 向き合います。ちゃんと。明日、この曲に、ピアノに、自分に」

璃子の目は、迷いがなかった。
静かだけど、燃えていた。

湊は、少しの沈黙のあと、ふっと微笑んだ。

「安心しました」
「それでこそ、璃子さんですよ」

璃子の胸の奥に、じんわりと温かいものが広がった。
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