世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
翌朝――。

本番当日の朝。

カーテンの隙間から、やわらかな光が差し込んでいた。
澄みきった青空が、パリの古い街並みをゆっくりと照らしていく。
その光に包まれながら、璃子は静かに目を開けた。

窓の外では、教会の鐘が遠くで鳴っている。
それが、まるで「今日は、あなたの日ですよ」と優しく告げているようだった。

ゆっくりと体を起こす。
不思議と、重さはなかった。
あれだけ苦しんだ熱も、痛みも、今はもう遠い記憶のようだ。

朝食を終えた頃、いつものように湊がやって来た。
彼の手には体温計と、ミネラルウォーター。
もう何度繰り返したか分からないその光景が、今朝だけは特別に見えた。

「体温、お願いします」

璃子は笑って頷き、体温計をうけとる。
湊はその間にタブレットを開き、今日のスケジュールを淡々と確認していた。
指先が動くたびに、何度も調律を確かめ、舞台袖の動線や休憩時間の管理まで目を通す。
本番を迎えるのは自分なのに、彼の方がずっと緊張しているように見えた。

「平熱です。問題ありませんね」

その言葉に、璃子はほっと息をついた。

「……はい。今日も、ちゃんと弾けます」

短く交わされたそのやりとり。
けれど、そこに積み重ねたものはあまりにも大きかった。
病室のようなホテルのベッドで苦しんでいた数日前。
熱にうなされ、震える手を握りしめてくれた彼の温度。
何度も、何度も、声をかけてくれたあの穏やかな声。

それらすべてが、今の自分をここに立たせてくれている。

デスクの上に置かれた楽譜を見下ろす。
初めて触れたとき、音がまるで霧の中にあった曲。
心を通わせることなんてできないと、拒絶していた旋律。

だけど今は――違う。

その一音一音に、自分の時間、自分の決意、そして自分の生き様を重ねられる。
曲の中に、ちゃんと自分がいると、そう思える。

この五日間、決して簡単な道ではなかった。
何度も逃げたくなった。
音楽を捨てたかった。
でも、それでも。

彼がいてくれたから。
何も言わずに傍にいて、怒って、笑って、支えてくれたから。
ここまで、たどり着けた。

璃子はふと、右手を見つめた。
あの時、もう弾けないと思った手。
だけど今、ちゃんと力が宿っている。

ステージに立つことが怖くないわけじゃない。
失敗するかもしれない。
でも、怖さよりも――今は、伝えたい気持ちのほうが大きかった。

――やっと、向き合える。

逃げるのではなく、否定するのでもなく。

今日、このステージで。
この曲と、自分と、そして彼と。

ちゃんと、向き合って音を奏でる。
その一音が、嘘じゃないものとして響くように。

今日という日は、きっと忘れられない日になる。

そして、できることなら――
この音が、誰かの心に届くようにと、璃子はそっと目を閉じた。
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