世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく

さようならの灯り

舞台袖。
深紅のカーテンの奥、わずかな光だけが差す静寂の空間。

璃子は、由紀子が用意した真新しいドレスに身を包んで立っていた。
柔らかなアイボリーの生地に、繊細なレースとパールの装飾。
主張しすぎない、けれど凛とした存在感を放つそれは――
かつて母が夢見た「完璧な舞台」のために選ばれた一着だった。

けれど今、璃子はそのドレスを、誰のためでもない、自分のためにまとう。
手首にはまだ、薄く湿布の痕が残っていた。
だけど、その手はもう震えていない。

すぐ傍に、湊がいる。
彼の両手が、璃子の手を包み込むように握っていた。

「吸って、吐いて――そう、もう一度」

彼が小さく促すたびに、璃子の胸が上下する。
緊張と静けさがせめぎ合う中、手のひらから伝わるぬくもりが、璃子の背を支えていた。

「大丈夫。舞台は璃子さんのものだよ」

その言葉に、璃子は小さく頷いた。
もう、迷いはない。
ただ、静かに音を届けるだけ。

スタッフに呼ばれ、璃子は舞台袖を一歩踏み出す。
音もなく歩くヒールの音だけが、重く胸に響いた。

ステージに向かう途中、拍手はない。
コンクールだから。
ただの移動、ただの開始前の一場面。
けれど、その沈黙こそが、演奏者の存在を際立たせる。

観客の視線が、一斉に注がれる。
まっすぐ、鋭く、期待と評価と好奇の入り混じった数百の視線。

璃子は、動じなかった。
真っ直ぐにピアノへと歩く。

静かに椅子に腰かける。
ドレスの裾を整え、深く一度、呼吸を整えた。

まずは、譜面台を外す。
暗譜での演奏。それがコンクールの規定だ。

次に、ベンチの高さを微調整し、足元のペダルにそっと足を添える。
右手を軽く振って、ホールの残響を感じる。
この数秒の準備で、演奏のすべてが決まる――それを、彼女は知っている。

そして、静かに両手を鍵盤の上に浮かせた。

ホールは、水を打ったような静けさに包まれていた。
誰もが息を潜め、次の一音を待っている。

璃子の瞳が、そっと閉じられる。

今、自分の中のすべてが、音になる。
痛みも、不安も、希望も、愛しさも――
全部、ここにある。

そして――

彼女は、最初の音に指を落とした。
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