世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
音が鳴った瞬間、世界が変わった。
ピアノの前にいるのは、もう「誰かに弾かされていた」少女ではない。
心から、自分の意志で弾く――朝比奈璃子だった。

彼女の瞳がゆっくりと開き、鍵盤に向けられる。
深く息を吸い込むと、客席のざわめきも、照明の熱も、遠のいていった。

彼女の世界に、今あるのは――このピアノと、ここに来るまでの記憶だけ。

練習室での汗、倒れた夜、彼の手、通訳として寄り添ってくれた姿。
「舞台は璃子さんのものです」と囁いてくれた、あの温度。

そして、音楽を辞めようとした自分。
それでも、もう一度向き合おうと決めた朝。

そのすべてが、今、指先へと降りていく。

最初の一音が、ホールに放たれる。

――静寂が、震えた。

その音は、ただ「美しい」だけではなかった。
それは、叫びだった。
祈りだった。
彼女の人生そのものが、鍵盤の上で鳴っていた。

湊は、舞台袖から見つめていた。
璃子の肩の動き、息の流れ、ペダルを踏む足先。
すべてが、調和している。
それは、彼が今まで見てきたどんな演奏家とも違う――生きている音だった。

ピアノの中で響く弦の震え、響板を通して伝わる音の波を、彼は職人としても、ひとりの男としても全身で受け止めていた。

「……璃子さん……」

思わず声が漏れそうになる。

そして遠く離れたアメリカ。
時差の夜中、麻衣の家のリビングには、タブレットから流れる国際コンクールの生中継。
麻衣、ダニエル、子どもたち、そして由紀子が画面に集中している。

璃子が舞台に立つ姿に、誰もが息を呑む。
初めて見るような、いや、初めて「聴く」璃子だった。

麻衣は目頭を押さえ、ダニエルは静かに頷いた。
子どもたちはよく分からないまま、その空気の重みに押されて黙っている。

由紀子もまた、黙っていた。
一言も声を出さず、ただ娘の演奏を聴いている。
その目に、涙が浮かんでいた。

(あの子……なんて音を……)

自分の思い描いた「完璧」とは違う。
もっと不揃いで、もっと強くて、もっと優しい――
璃子だけの音だった。

演奏は、静かにクライマックスへと向かう。
最も高音部へ跳ね上がる直前、璃子はほんのわずかに、笑った。

緊張の笑みではない。
勝利の笑みでもない。

これは、自分の音を――
自分自身を、ようやく受け入れた笑顔だった。

最後の一音がホールに広がったとき、静寂が数秒続いた。

そして、拍手。
嵐のような喝采が、璃子の全身に降り注いだ。

だが彼女は、すぐには立ち上がらなかった。
鍵盤に両手を置いたまま、深く、深く、頭を下げる。

ありがとう――と、ピアノに。

ありがとう――と、自分に。

そして、ありがとう――と、彼に。

璃子はゆっくりと立ち上がり、観客席に一礼し、静かに舞台を降りていった。

舞台袖で待っていた湊が、すぐに近づき、そっと璃子の手を取った。

「おかえりなさい」

その一言に、璃子はうなずいた。

「ただいま――やっと、帰ってこられました」

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