世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
成田の曇り空の下、湿った空気が二人の距離をじんわり包む。
ここが、彼女との別れの場所だった。

言葉を交わさず、胸の奥でそれぞれが言葉を織り成す。

「湊さん……」
璃子の声は風のように軽くも、決して揺らがなかった。
「これからも多くのピアニストの音を支えてください」

瞳が真っ直ぐに彼を見据える。

「あなたのような“音を預けたくなる人”を必要としている人が、きっとたくさんいます。応援しています」

湊は一歩近づき、静かに答えた。

「あなたの最後の調律師でいられたこと、誇りに思います」

璃子の瞳に、淡い涙が光る。だが彼女は微笑んだ。

「あなたがこれからも、自分らしく生きられますように」

彼女は小さく頷き、頭を下げた。

「ありがとうございました」

握手も抱擁もない、ただ心だけが交差する別れ。

タクシーのドアが閉まるとき、最後の笑顔が彼の胸に深く刻まれた。

湊はその場に取り残され、空港のざわめきの中、静かに立ち尽くした。

胸の奥で、小さな旋律が生まれては消える。
それは彼女の残した音――
もう二度と、触れることのない音だった。
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