世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
家のドアを開けたとき、あの広すぎる玄関ホールに灯りが点いていた。

母の「おかえり」は、どこにもなかった。
代わりに、リビングから微かにテレビの音が漏れている。

覗くと、父が一人、グラスを傾けていた。
こんな時間に家にいるなんて、珍しい。

「……ただいま」

「おかえり」
グラスをテーブルに置きながら、父はちらりと璃子を見る。
その目は、意外なほど穏やかだった。

「おめでとう、璃子。よくやったな」

「ありがとう……お父さん」

静かに言葉を交わす時間。
不器用な父との会話は、いつも少しだけ、ぎこちない。

しばらくの沈黙のあと、父がぽつりと聞いた。

「これから……どうするんだ?」

その問いは、母から聞かされているのだろう。
私が、ピアノをやめると伝えたこと。

璃子は、少し首を傾げて問い返す。

「私が、ピアノを辞めるって言ったら……どうする?」

父は、グラスの中の氷を揺らしながら、答えた。

「ピアノに関しては……したいようにすればいい。
今までお前を苦しめてしまったからな。私は構わないよ」

そこで言葉を切り、グラスを置いて璃子の目をまっすぐ見た。

「だが――ピアノをやめたら、何をするつもりだ?」

その問いに、璃子は黙り込んだ。

ずっと、心の中にあった思い。
でも、誰にもちゃんと口に出したことがなかった。

「……服屋さんで働きたい。服が、好きだから」

父の眉がわずかに動く。

「……子どもの戯言だな」

その言葉に、胸がちくりと痛んだ。
予想していたはずなのに、突き放されると、やっぱり苦しい。

父は立ち上がり、ソファの背に手を置いて、ゆっくり言った。

「ピアノをやめるなら、うちからは出て行きなさい」
「一人で、その“好きな服の仕事”で生計を立てて、生きていけ。
それが、“社会に出る”ってことだ」

その声音に、責める色はなかった。
ただ淡々と、現実を突きつけるような調子だった。

「ピアノしか知らないお前に、何ができる?
何の社会経験もないまま、“好きだから”でやっていけるほど甘くはない」

悔しいが、図星だ。
結局私は、親の力がなければ、何もできない。

言い返せずにいると、父は言葉を重ねる。

「自分で働いて生きるなら、今の生活レベルは維持できない」

「外商がネギ一本を持ってきてくれることもない。
スーパーで、いつ何が安くて、どうやって家計をやりくりするか――
そういうことを、世の中の人は身につけてる」

「……普段食べてるコメの値段、わかるか?」

璃子は、喉がひりつくような感覚とともに、何も言えなかった。

知らなかった。知ろうともしなかった。
ずっと、ピアノと母の理想の中だけで生きてきた。

現実の重みが、じわじわと身体を沈めていく。

けれど、目をそらすことは、もうしない。
この問いかけに、ちゃんと向き合って、考えて――

「……わからない。でも、知りたい。自分で生きたい」

その言葉が口から出るには、もう少し時間がかかるのかもしれない。
でも、璃子の心は、確かに動き始めていた。
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