世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
白紙の章
あっという間に、一ヶ月が経った。
璃子は今、百貨店のアパレルショップでアルバイトをしている。
服が好きで始めた仕事。社員のように働いているわけではないが、毎日新しいことを覚えるのは新鮮で、時間が過ぎるのも早かった。
ピアノにはもう、触れていない。
調律することもなくなり、蓋は閉じたまま。
湊の姿も、あれから一度も見ていない。会う理由もなかった。
少しだけ、寂しいと思う自分がいる。
でも――これが自分の選んだ道だった。
***
母が帰ってきたのは、そんな日常がやっと落ち着き始めた頃だった。
玄関の音に気づいて顔を出すと、母は少し疲れていたようだったが、化粧も服装もきちんとしていた。
「麻衣も赤ちゃんも元気よ。すっかり母親の顔になってたわ」
そう言って、ふっと笑った。
久しぶりに見る母の姿に、璃子の心は複雑だった。
怒っている様子はない。かといって、優しいわけでもなかった。
その夜――
「リビングに来てちょうだい」
母の静かな声に呼ばれ、一階へ降りる。
両親が揃ってソファに腰掛けているのを見て、璃子は嫌な予感を覚えた。
「璃子」
母が口を開いた。
「ピアノをやめるのは……許します」
それは、想定外の言葉だった。
驚いて顔を上げた璃子に、母は続ける。
「でも――結婚しなさい」
心臓が、跳ねた。
「……結婚?」
璃子は声を絞り出すように尋ねる。
「誰と?」
母は静かに言った。
「篠原 恭介さん。あなたも知ってるはずよ。ヴァイオリニストの」
頭が真っ白になる。
あの、冷静すぎるほどに理知的で、感情をほとんど見せなかった篠原さんと?
「……どういうこと?」
言葉を選ぶ余裕もなく、璃子は聞いた。
母はまっすぐ璃子を見て、まるで当然のように答えた。
「もともと、お見合いの話は出ていたのよ。あなたがピアニストを続けるにせよ、やめるにせよ――きちんとした家と繋がりを持つ必要がある。篠原家は音楽界でも有力な一族。お父様も了承済みよ」
璃子は視界が揺らぐのを感じた。
あの舞台を経て、ようやくピアノを降りたというのに。
今度は、人生ごと差し出せというのだろうか。
それでも母は、落ち着いた口調で続ける。
「政略結婚なんて言葉は古いかもしれない。でも、人生をひとつの作品として捉えたときに、あなたはまだ“次の章”を白紙のままにしている。恭介さんとなら、きっと立派な未来が築ける」
璃子の心臓は、まだバクバクと高鳴ったままだった。
それが、音楽に情熱を傾けるときの興奮ではなく、
自分の人生を他人に決められる恐怖から来るものだったと気づくのに、時間はかからなかった。
璃子は今、百貨店のアパレルショップでアルバイトをしている。
服が好きで始めた仕事。社員のように働いているわけではないが、毎日新しいことを覚えるのは新鮮で、時間が過ぎるのも早かった。
ピアノにはもう、触れていない。
調律することもなくなり、蓋は閉じたまま。
湊の姿も、あれから一度も見ていない。会う理由もなかった。
少しだけ、寂しいと思う自分がいる。
でも――これが自分の選んだ道だった。
***
母が帰ってきたのは、そんな日常がやっと落ち着き始めた頃だった。
玄関の音に気づいて顔を出すと、母は少し疲れていたようだったが、化粧も服装もきちんとしていた。
「麻衣も赤ちゃんも元気よ。すっかり母親の顔になってたわ」
そう言って、ふっと笑った。
久しぶりに見る母の姿に、璃子の心は複雑だった。
怒っている様子はない。かといって、優しいわけでもなかった。
その夜――
「リビングに来てちょうだい」
母の静かな声に呼ばれ、一階へ降りる。
両親が揃ってソファに腰掛けているのを見て、璃子は嫌な予感を覚えた。
「璃子」
母が口を開いた。
「ピアノをやめるのは……許します」
それは、想定外の言葉だった。
驚いて顔を上げた璃子に、母は続ける。
「でも――結婚しなさい」
心臓が、跳ねた。
「……結婚?」
璃子は声を絞り出すように尋ねる。
「誰と?」
母は静かに言った。
「篠原 恭介さん。あなたも知ってるはずよ。ヴァイオリニストの」
頭が真っ白になる。
あの、冷静すぎるほどに理知的で、感情をほとんど見せなかった篠原さんと?
「……どういうこと?」
言葉を選ぶ余裕もなく、璃子は聞いた。
母はまっすぐ璃子を見て、まるで当然のように答えた。
「もともと、お見合いの話は出ていたのよ。あなたがピアニストを続けるにせよ、やめるにせよ――きちんとした家と繋がりを持つ必要がある。篠原家は音楽界でも有力な一族。お父様も了承済みよ」
璃子は視界が揺らぐのを感じた。
あの舞台を経て、ようやくピアノを降りたというのに。
今度は、人生ごと差し出せというのだろうか。
それでも母は、落ち着いた口調で続ける。
「政略結婚なんて言葉は古いかもしれない。でも、人生をひとつの作品として捉えたときに、あなたはまだ“次の章”を白紙のままにしている。恭介さんとなら、きっと立派な未来が築ける」
璃子の心臓は、まだバクバクと高鳴ったままだった。
それが、音楽に情熱を傾けるときの興奮ではなく、
自分の人生を他人に決められる恐怖から来るものだったと気づくのに、時間はかからなかった。