世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
璃子は、力なくドアを閉めてベッドに腰を下ろした。
心臓の鼓動が、まだ早い。
「出ていけ」という母の言葉が、何度も何度も頭の中で反響していた。

ゆっくりと引き出しから通帳を取り出す。
百貨店のバイト代が少しずつ入っているとはいえ、自由に使える金額は限られていた。

「……足りないかも」

つぶやきながら、スマートフォンで「東京 家賃 ワンルーム」と検索する。
都内の一人暮らし向け物件――安いところでも、家賃は6万円台から。
駅近で築浅となると、8〜10万円は当たり前だった。

(……無理。こんなの、バイトのシフト増やしたって絶対追いつかない)

水道光熱費、食費、日用品、交通費。
雑多にかかるお金の概算すら、ちゃんと把握できていない。

何も知らないまま、夢みたいな世界に守られて生きてきた――
その現実が、冷たく彼女の背筋をなぞっていく。

(初期費用って、何十万とかかるんだっけ……敷金、礼金、仲介手数料……)

不安に突き動かされるように、家賃3万円台の物件に絞って検索をかける。
築50年以上。風呂なし、共同トイレ。
「夜中に怒鳴り声が聞こえる」「住民がゴミを燃やしていた」「女性の一人暮らしはおすすめしません」――
口コミ欄に書かれた言葉が、画面越しに重たく圧し掛かる。

「……さすがに、ここ安いけど……まずいよね」

身体が自然とすくむ。
恐怖と不安と現実の壁に囲まれ、どんどん呼吸が浅くなっていく。

それでも――

璃子は、そっと胸元に手を伸ばした。
プラチナのチェーンに、小さなハートのダイヤがちりばめられたネックレス。

(……大丈夫。私は……大丈夫)

あの日、湊が言ってくれた言葉が、静かに蘇る。

「あのネックレスは、璃子さんにしか似合わないと思いました」

まだ、音は聞こえない。
でも、あの温かな手の感触だけは、消えずに残っていた。

「……よし」

璃子は鼻をすすり、涙を拭ってからスマホを握り直す。

物件のページをスクロールして、手の届きそうな場所を見つけた。
きれいとは言えないけれど、治安は悪くなさそうで、駅からも徒歩圏内。

勇気を振り絞って、不動産屋に連絡を入れた。

「あの、こちらの物件、内見の予約をしたいんですけど……」

電話の向こうの声が応じるまでの数秒間が、異様に長く感じた。

人生の何もかもが変わっていく音が、かすかに鳴り始めていた。
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