世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
日差しの強い午後だった。
アパレルのシフトを終えて、璃子はそのまま電車に乗った。
降りた駅は、聞いたことのないローカル線。
改札を抜けた瞬間、都会の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
スマホの地図アプリを片手に、住宅街の坂道を歩く。
(え……ここ、登るの?)
容赦なく続く上り坂。
革靴で来たことを後悔しながら、汗をぬぐって歩き続ける。
20分後――
ようやく着いたその場所は、まるで昭和の時代から取り残されたような木造アパートだった。
玄関ドアの色ははげ、サビが目立つ。
手すりの金属は変色し、外階段はわずかにきしんでいた。
まるで“建物”というより、“物体”と呼ぶ方が正確に思えるほどだった。
「……すごい」
思わず漏れた声は、驚嘆というより、もはや呆然。
不動産屋のスタッフが笑顔で待っていた。
「朝比奈さんですね。お待ちしてました。じゃ、見てみましょうか」
錆びた鍵を回して開けられた扉の奥。
ふわりと、湿気と埃の混ざった空気が漂う。
「え……これ……」
玄関の段差が異様に高く、床はミシッと音を立てた。
靴を脱いで一歩踏み入れると、足元がわずかに沈む。
「6畳1間。トイレは和式で、共用シャワーは外にあります。風呂は――ないですけど、近くに銭湯があるんで」
「外、ですか……?」
「ええ、あっちの小屋みたいなとこ。ちょっとした鍵付きスペースになってて、水しか出ないんですけどね」
璃子は絶句した。
壁は黄ばんでひび割れ、コンセントには焦げ跡。
エアコンは壊れているようで、黒いガムテープで塞がれていた。
窓の外には、物干し竿と、隣の住人が干した下着が風に揺れていた。
「ちなみにお隣、昼夜逆転してる方でして。たまに音がうるさいかもしれません」
(……ここに、住めるの?)
目の前の現実が、ピアノのある日常とはあまりにかけ離れていた。
リビング――というにはあまりに狭い一室の壁に、湊から贈られたネックレスがよぎる。
(この部屋に、あのネックレスは……あまりにも似合わない)
けれど、それが今の自分。
「……ちょっとだけ、考えさせてください」
「もちろん。人気物件じゃないんで、急がなくて大丈夫ですよ」
冗談なのか本気なのか、わからなかった。
璃子は外階段を降りると、再び見上げた。
傾いたアパートの輪郭が、どこか歪んで見えた。
だけど、逃げ道はない。
“あの世界”にはもう、戻らないと決めたのだから。
アパレルのシフトを終えて、璃子はそのまま電車に乗った。
降りた駅は、聞いたことのないローカル線。
改札を抜けた瞬間、都会の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
スマホの地図アプリを片手に、住宅街の坂道を歩く。
(え……ここ、登るの?)
容赦なく続く上り坂。
革靴で来たことを後悔しながら、汗をぬぐって歩き続ける。
20分後――
ようやく着いたその場所は、まるで昭和の時代から取り残されたような木造アパートだった。
玄関ドアの色ははげ、サビが目立つ。
手すりの金属は変色し、外階段はわずかにきしんでいた。
まるで“建物”というより、“物体”と呼ぶ方が正確に思えるほどだった。
「……すごい」
思わず漏れた声は、驚嘆というより、もはや呆然。
不動産屋のスタッフが笑顔で待っていた。
「朝比奈さんですね。お待ちしてました。じゃ、見てみましょうか」
錆びた鍵を回して開けられた扉の奥。
ふわりと、湿気と埃の混ざった空気が漂う。
「え……これ……」
玄関の段差が異様に高く、床はミシッと音を立てた。
靴を脱いで一歩踏み入れると、足元がわずかに沈む。
「6畳1間。トイレは和式で、共用シャワーは外にあります。風呂は――ないですけど、近くに銭湯があるんで」
「外、ですか……?」
「ええ、あっちの小屋みたいなとこ。ちょっとした鍵付きスペースになってて、水しか出ないんですけどね」
璃子は絶句した。
壁は黄ばんでひび割れ、コンセントには焦げ跡。
エアコンは壊れているようで、黒いガムテープで塞がれていた。
窓の外には、物干し竿と、隣の住人が干した下着が風に揺れていた。
「ちなみにお隣、昼夜逆転してる方でして。たまに音がうるさいかもしれません」
(……ここに、住めるの?)
目の前の現実が、ピアノのある日常とはあまりにかけ離れていた。
リビング――というにはあまりに狭い一室の壁に、湊から贈られたネックレスがよぎる。
(この部屋に、あのネックレスは……あまりにも似合わない)
けれど、それが今の自分。
「……ちょっとだけ、考えさせてください」
「もちろん。人気物件じゃないんで、急がなくて大丈夫ですよ」
冗談なのか本気なのか、わからなかった。
璃子は外階段を降りると、再び見上げた。
傾いたアパートの輪郭が、どこか歪んで見えた。
だけど、逃げ道はない。
“あの世界”にはもう、戻らないと決めたのだから。