世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
夕方、璃子はアパレルのシフトを終えて、その足で結花の家を訪ねた。
玄関を開けた瞬間から、ふわっとアロマの香りがする。
いつも通り部屋はかわいく整っていて、気の抜けた猫のクッションが出迎えてくれた。

「ちょっと、ありえないんだけど……」

内見の話を聞き終えた結花は、目を見開いて声を荒げた。

「え? 風呂が外? シャワー水? 和式トイレで、男しか住んでない? なにそれ、事件現場の下見か何か?」

「……でも、そこしか払えそうなとこなかったの」

「そんなとこ、ダメに決まってるでしょ! 事件にでも巻き込まれたらどうするのよ!」

結花の言葉は怒りというより、焦りだった。
璃子を思っての、本気の心配がまっすぐに伝わってくる。

「せめて……せめてさ、お風呂と洗濯機置き場はあるとこにして。女の子なんだよ? 自分の安全だけは死守してよ。なにかあってからじゃ遅いの」

「……でも、7万とか8万の家賃なんて、無理だよ。初期費用入れたら20万超えるし……そんなにバイト入れないし……」

「だったら……社員の仕事、探しなさいよ」

結花の声が落ち着きを取り戻す。

「璃子、ずっとは無理だよ。バイトだけじゃ。もし本気で一人暮らししたいなら、正社員か、それに近い働き方で探さなきゃ」

「……わかってる。でも、私なんにもできないし」

「できることから始めればいいの。私たちだって最初はそうだったよ。アパレルだって社員登用あるでしょ? やってみなよ。資格とか経験とかじゃなくて、“覚悟”で採る企業だってあるんだから」

璃子は俯いて、唇を噛んだ。

(社員……私が?)

思ってもみなかった言葉だった。
でも、そう言われてみれば、確かに——何かを変えるなら、それくらいの覚悟は必要なのかもしれない。

「わからなかったら一緒に調べてあげるよ。職務経歴書の書き方とか、面接対策とか。いくらでも助ける。……だから、そんなとこ、住まないで」

結花はそう言って、璃子の手を両手で包み込んだ。
優しさと力強さの入り混じったその手のぬくもりが、胸に沁みた。

「……ありがとう、結花」

璃子は、ようやく小さな声でそう言った。
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