世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
結花の助けで、初めての履歴書を手にした。

学歴。職歴。志望動機。

(こんなに白紙みたいな履歴書って、私だけじゃないよね……?)

アルバイト歴だけじゃ心もとない気がして、思い出せる限りのことを書いた。
接客で心がけたこと。服のたたみ方がうまいと褒められたこと。
パーソナルカラー講座で学んだ知識を生かして、売り場で相談されたときの話。
——どれも、必死にひねり出した。

それでも。
出しても出しても、返信は同じだった。

「今回はご縁がなかったということで……」

どの会社からのメールも、冒頭の一文から最後の署名まで、まるでコピーしたかのように冷たかった。

最初の一通は、悔しくて泣いた。
二通目、三通目は、無表情でゴミ箱へ。
十通目を超えたあたりで、璃子の中の「期待」という感情が、静かに、けれど確実にしぼんでいった。

(やっぱり……無理なのかな)

自室のカーテンは閉めっぱなし。
夜なのに、肌寒くて、空気が重い。
床に広げた求人誌とスマホの画面を交互に見つめるだけの時間が、ただ流れていく。

「……あと、一週間か」

カレンダーにぐるっと赤ペンで丸をつけた日付が、もうすぐそこにある。
母の言葉がよみがえる。

《今月中には出てってもらうから》

《お風呂もないようなアパートに住んで耐えられるなら別だけど》

(……耐えられるのかな)

あのアパートの写真をもう一度スマホで開く。
畳が変色して、ドアの隙間には新聞がはさまってる。
口コミ欄には、夜中の怒鳴り声、隣人の騒音、ゴキブリが天井から落ちてきた話まであった。

「でも……そこしかないんだよ……」

焦りが、喉をぎゅっと締めつける。
浅い呼吸しかできなくなって、胸が苦しくなる。
涙をこらえながら、無意識に胸元のネックレスに手が伸びる。

——湊さんにもらった、あのネックレス。

(なんで触っちゃうんだろ……もう、会わないのに)

でも、なぜか。
その冷たいプラチナの感触だけが、自分の「まだ大丈夫」を支えてくれる気がした。

(このまま、何も決まらなかったら……どうなるんだろう)

「……もう、一旦……あのアパート、入るしか……」

唇を噛んだ。

(やっぱり、私にはこの程度しか道がないのかな……)

画面を見つめる指が、震える。

クリックしてしまえば、契約は進む。
戻れない。
けれど、このまま親の言う通り、望まない結婚をするなんて——。

璃子の胸の中で、決断と絶望がせめぎ合う。
カーテンの隙間から、夜の光がぼんやりと射し込んでいた。
時計の針の音が、やけに大きく響いていた。

——時間が、なくなる。

そして、逃げ場も。
< 89 / 217 >

この作品をシェア

pagetop