世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
リュックひとつを背負って、私は家を出た。
何も言わなかった。
誰にも告げず、ただ静かに、朝の家を後にした。

静まり返った朝の空気のなかで、玄関の扉が音を立てて閉まる。
それは、これまでの生活との決別の音だった。

不動産屋は、駅前の古びた雑居ビルの三階にあった。

「……え? 本当に、契約されるんですか?」

受付の女性は、書類にサインをする私を、しばらく言葉もなく見つめていた。

「この物件、若い女性が一人で住むには、正直おすすめできません。でも……本気なんですね」

私は、はい、とだけ言った。

すると彼女は、黙って席を立ち、内線で誰かを呼んだ。
現れた中年の男性スタッフは、どこか気まずそうな顔をして、私の前に座る。

「仲介手数料は……いりません。敷金礼金も、規定の半分でいいです。ほかの入居者にも言ってますから」

「できるだけ綺麗にしました。害虫駆除も、昨日入れたばかりです。あとは、あの……」
男の人は少しだけ言葉を詰まらせた。

「夜に、もし……何か危険を感じたら、遠慮なく警察を呼んでください」


鍵を渡されたとき、私は笑顔で礼を言った。
でも、胸の奥で何かが凍ったように感じた。

この鍵は、新生活の鍵なんかじゃない。

まるで、戦場に入るための通行証みたいだ。

私は今から、敵の陣地に一人で突撃する。
そんな錯覚を覚えていた。


午後三時。
夏の陽が肌を刺すように照りつけるなか、私はアパートの前に立った。

「第二・三葉荘」と、金属のプレートに書かれた名前は、何十年も風雨にさらされて擦れていた。
外壁は色あせ、隣の部屋との仕切りにはガムテープの跡。

階段を上がると、私の部屋はすぐそこだった。

カチャ、と鍵を差し込んで扉を開ける。

……蒸し風呂のような空気が、一気に顔にぶつかった。

そして、その空気の奥からほんのり漂う、古い木材と、埃と、どこか酸っぱいようなにおい。

(……大丈夫、大丈夫)

私はもう一度、自分にそう言い聞かせた。

たとえどんな暮らしでも、誰の指図も受けずに、自分の足で立つと決めたんだから。

……けれど、やっぱり——ほんの少し、怖かった。
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