世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
リュックひとつを背負って、私は家を出た。
何も言わなかった。
誰にも告げず、ただ静かに、朝の家を後にした。

静まり返った朝の空気のなかで、玄関の扉が音を立てて閉まる。
それは、これまでの生活との決別の音だった。

不動産屋は、駅前の古びた雑居ビルの三階にあった。

「……え? 本当に、契約されるんですか?」

受付の女性は、書類にサインをする私を、しばらく言葉もなく見つめていた。

「この物件、若い女性が一人で住むには、正直おすすめできません。でも……本気なんですね」

私は、はい、とだけ言った。

すると彼女は、黙って席を立ち、内線で誰かを呼んだ。
現れた中年の男性スタッフは、どこか気まずそうな顔をして、私の前に座る。

「仲介手数料は……いりません。敷金礼金も、規定の半分でいいです。ほかの入居者にも言ってますから」

「できるだけ綺麗にしました。害虫駆除も、昨日入れたばかりです。あとは、あの……」
男の人は少しだけ言葉を詰まらせた。

「夜に、もし……何か危険を感じたら、遠慮なく警察を呼んでください」
•

鍵を渡されたとき、私は笑顔で礼を言った。
でも、胸の奥で何かが凍ったように感じた。

この鍵は、新生活の鍵なんかじゃない。

まるで、戦場に入るための通行証みたいだ。

私は今から、敵の陣地に一人で突撃する。
そんな錯覚を覚えていた。
•

午後三時。
夏の陽が肌を刺すように照りつけるなか、私はアパートの前に立った。

「第二・三葉荘」と、金属のプレートに書かれた名前は、何十年も風雨にさらされて擦れていた。
外壁は色あせ、隣の部屋との仕切りにはガムテープの跡。

階段を上がると、私の部屋はすぐそこだった。

カチャ、と鍵を差し込んで扉を開ける。

……蒸し風呂のような空気が、一気に顔にぶつかった。

そして、その空気の奥からほんのり漂う、古い木材と、埃と、どこか酸っぱいようなにおい。

(……大丈夫、大丈夫)

私はもう一度、自分にそう言い聞かせた。

たとえどんな暮らしでも、誰の指図も受けずに、自分の足で立つと決めたんだから。

……けれど、やっぱり——ほんの少し、怖かった。
< 90 / 217 >

この作品をシェア

pagetop