世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
夜が来た。
東京の街がまばゆい光を放つ頃、このアパートの周りは真っ暗だった。

電灯はちらつき、廊下の奥から聞こえるのは、男の怒鳴り声。
テレビの音。誰かが缶ビールを投げ捨てるような音。

それでも、部屋の中にいると——いちばんの敵は、暑さだった。

エアコンの代わりに持ち込んだ小さな扇風機は、生ぬるい空気をかき混ぜるだけで、まったく役に立たない。

布団の上に寝転がっても、背中がじっとりと汗で張りついて、少しでも動けばシーツがペタッと音を立てた。

壁は薄く、隣の部屋の咳払いまで聞こえる。
トラックのアイドリングが遠くで続き、蚊の羽音が耳元をかすめる。

私は目を閉じたまま、うつぶせになった。

眠れない。暑い。苦しい。

ここには、ピアノもない。
誰の気配もない。
——湊さんの声も、もう、聞こえない。

思い出したくないのに、思い出してしまう。

ラウンジで、ネックレスをつけてくれたときの、あの手の感触。
「あなたにしか似合わないと思いました」
そう言った彼の、まっすぐな声。

なんで今、こんなところで……私は、一人で何をしてるんだろう。

バスタオルを引き寄せ、頭からすっぽりとかぶる。

せめて、誰にも見えないように。
誰にも、聞こえないように。

タオルの中は蒸し暑くて、息が詰まりそうだった。
でも、それが逆に安心だった。

喉の奥が、きゅっとなって、何かがこぼれ落ちた。
ひとしずく、ふたしずく。

(がんばるって……決めたのに……)

音を殺すように、口元を押さえながら泣いた。
しゃくりあげる音を、扇風機の回転音がかき消してくれた。

布団の下の床は硬くて、背中は汗でびっしょりだった。

だけど、私は——眠れなかった。
朝が来るまで、目を閉じても、ただ涙が滲むばかりだった。
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