世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
朝が来た。
カーテンもない窓から、むきだしの朝日が容赦なく差し込んでくる。

起き上がろうとして、体が思うように動かない。
まぶたは重く、首の後ろがじっとりと汗ばんでいる。
喉はカラカラで、胃がむかつくように気持ち悪い。

(……あれ?)

目の前がふっと揺れた。
立ち上がった瞬間、膝ががくんと折れて、壁に手をついてなんとか倒れずに済んだ。

(おかしい……)

熱があるわけじゃないのに、体が火照っている。
頭がボーッとして、ふらふらとした足取りでバッグをつかみ、スマホで病院を検索する。

向かったのは、実家にいた頃から通っていた駅前の内科。
受付で名前を言うと、まだ保険証が親の名義のままで登録されていた。

待合室の冷房が、肌に突き刺さるように冷たかった。
座っているだけで、汗が一気に冷えていく。

診察室に呼ばれて、医師は静かに問診と体温、血圧を測りながら言った。

「軽度の熱中症ですね。
水分と塩分が不足して、体が冷やせていない状態です。倦怠感と吐き気、ふらつき……すべてそのせいです。」

璃子は黙って頷いた。
医師は、少し言いにくそうな顔で、静かに尋ねる。

「ご自宅に、エアコンはありますか?」

「……ありません」

少しだけ、喉が震えた。
医師は穏やかな口調のまま、はっきりと告げた。

「それは、厳しいですね。今の気温でエアコンなしでは、回復は見込めません。
このままご自宅に戻ると、悪化する可能性が高いです。水分補給だけでは間に合わない。
……入院しましょう。まずは体力を戻すことが最優先です」

璃子は言葉を失った。
目の前がじんわりと滲んでいく。

——「入院」
その二文字は、なんだか遠いもののように思えた。

でも、これは現実だ。
一人暮らし、バイト生活。
夢を追って出てきたはずなのに、いま目の前にあるのは、「倒れて入院するほどの貧しさ」だった。

璃子は、おずおずと口を開く。

「……親に、お金を借りてもいいですか」

医師は穏やかに頷いた。
「もちろんです。ご家族と相談して、すぐに決めましょう」

璃子はスマホを取り出した。
連絡先——母の名前をタップする指が、少し震えていた。
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