世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
数か月ぶりに訪れた朝比奈家の玄関は、以前と変わらぬ静けさに包まれていた。

「たまには様子を見てきてやれよ」
父であり社長でもある創が、少しばかり気を利かせたような顔でそう言った。
「長く放っておくとピアノが拗ねるぞ」などと、珍しく穏やかな冗談まで添えて。

湊は、心のどこかで期待していた。
もう彼女とは会えないかもしれないと思っていた日々の中で、この再訪が突然降って湧いた奇跡のように思えた。

璃子さんは、元気だろうか。
ピアノを手放して、今、どんなふうにしているんだろう。
…笑えているだろうか。

だが、家の中は妙に空気が抜けていた。
彼女が外出している、というより――最初からここに存在しないような気配の薄さ。

「……おかしいな」
鍵盤の蓋を開け、工具を並べる手の動きの裏側で、心の中のざわめきが広がっていく。

張りつめた沈黙を破るように、遠くから怒鳴り声が聞こえた。

「――ちょっと! あの子が熱中症で倒れたって! すずらんクリニックに、今すぐ迎えの手配して!!」

鋭く、切迫した声。
間違いなく、璃子の母・由紀子の声だった。

倒れた?
迎えに行く? 誰を?

湊の手が一瞬、止まりそうになる。
だが、ピアノの前で止まることは許されなかった。職人としての矜持が、それを押しとどめた。

けれど、胸の奥が騒ぎ出す。

――熱中症?
――病院?

気がつけば、手は自動機械のように動いていた。
チューニングハンマーの先端が弦に触れる振動の中で、リビングの会話の一つ一つに全神経が研ぎ澄まされていく。

璃子さんは、今、どこにいる?
なにが起きてる?

問いが胸の中で渦を巻き続ける。
口に出せばいい。
由紀子に「彼女はどうしたんですか」と問えばいい――そう思っても、湊にはそれができなかった。

ただの調律師として、部外者の顔で、冷静を装ってそこにいるしかなかった。

けれど、もう二度と会えないかもしれないという思いと、
会わなければいけないという強烈な衝動が、胸の奥でぶつかり合っていた。
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