世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
作業も終盤に差し掛かり、スケールを弾いて最終確認をしていた時だった。
玄関がばたばたと騒がしくなり、続いて聞こえてきたのは――

「璃子、しっかりして!」

鋭い、けれどどこか震えている由紀子の声。
次いで、聡一の低く焦った声も飛び込んでくる。

「……今、往診頼んだから。三十分くらいで来ると思う」

思わず、湊の手が止まった。
静寂だったピアノの弦が、急に現実のざわめきに引き戻される。

気づけば立ち上がり、リビングの方へと足が向いていた。
覗いた先にいたのは、ソファにぐったりと身を横たえる璃子だった。

頬は蒼白く、唇に微かに色がない。
由紀子の呼びかけに、反応しているのかしていないのか分からない曖昧な仕草で、頭をかすかに揺らしているだけだった。

聡一がちら、とこちらを見て、眉をしかめながら言った。

「……騒がしくてすまんね」

湊は静かに首を横に振り、口を開いた。

「どうしたんですか、璃子さん……」

言葉を選びながら尋ねると、代わりに答えたのは由紀子だった。

「この子、自立するとか言って家を飛び出して……。
エアコンも風呂もないような、どうしようもないボロアパートに一人で住んで……それで、一日で熱中症よ」

呆れたような言い方ではあったが、声の端には明らかに不安と動揺がにじんでいた。
いつも完璧を貫く彼女が、いまにも涙をにじませそうな顔で娘を見つめている――その様子に、湊の胸がざわついた。

なぜ、そんなところに――

言葉にならない問いが、喉の奥で渦を巻く。
だが、それ以上踏み込むことは湊にはできなかった。
彼女がなぜそこまでして家を出たのか、それをここで訊くのは違うと思えたから。

視線を下げると、璃子の首元で、小さな銀の輝きが淡く光っていた。

湊が渡した、あのネックレスだった。

その小さなペンダントに、彼女はかすかに指先を伸ばしていた。
震える手で、そっと、何かを包むように触れている。

まるで、そこにしか安心できるものがないように――
まるで、助けを呼べない彼女が、それだけを頼りにしているように。

湊の喉が詰まりそうになった。

彼女は、自分がここにいることに気づいていない。
だけど、心のどこかでは、何かにすがろうとしている。

……璃子さん。

言いたいことはいくつも浮かぶ。
でも、それは今じゃない。

ただ静かに、湊は彼女の様子を見守っていた。
そして決めていた。
「彼女が目を覚ましたら、自分の言葉で伝えよう。今度こそ――」と。
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