世界一孤独なピアニストは、恋の調律師に溶けてゆく
空調は効いている。
それでも由紀子は、団扇を手に、璃子の体を静かに仰ぎ続けていた。
額や首筋にたまった汗をそっと拭きながら、時折、璃子の名を優しく呼んでみる。
その声には、厳しさとは異なる、滲むような愛情があった。

聡一はというと、スマートフォンで何やら確認しながら時計を見やり、「……すまん、俺ちょっと出る。テレビの収録に遅れるわけにはいかん」
そう言い残し、スーツの上着を手にして家を出ていった。
残されたのは、母と娘と、そして湊。

沈黙が、家の中を満たす。

湊はふと、ピアノの前に戻った。
調律はすでに終わっているが、最後の確認のつもりでスケールをゆっくりと弾く。
透明な音が、午後の空気に溶けていく。

――そして、ふと思い立ち、あの曲に手を伸ばした。

璃子が、フランスでの「アルテミス国際ピアノコンクール本選」で最後に弾いた曲。
ショパン《バラード第4番 ヘ短調 作品52》

まだそれほど時間は経っていない。
なのに、鍵盤の上を滑る指先には、懐かしさと、どこか寂しさが宿っていた。

あの時、確かに彼女は光っていた。
それが今、目の前のソファでこうして息も荒く横たわっている。
同じ人間なのに、まるで別の時空にいるような錯覚。

その時だった。

そっと部屋のドアが開き、由紀子が顔をのぞかせた。

「湊さん……ごめんなさい」
その声には、焦りと戸惑いが混じっていた。

「さっき、紀江おばあちゃんの住むマンションの方から連絡があって……。おばあちゃんが、急に具合が悪くなって病院に運ばれたそうなの。私、今からそちらに向かわなきゃいけなくて……でも、まだ往診のお医者さんが来てなくて……」

そこまで言って、由紀子は一瞬、視線を落とす。
「……もし、このあとご予定がないならでいいのだけれど……その、あの子のことを、往診の先生が来るまでだけで構わないから、見ていてもらえないかしら」

申し訳なさそうな表情が、どこか痛々しいほどだった。

「……本当に、コンクールの時といい、手間をかけさせてしまって……ごめんなさい」

湊は、静かに首を振る。

「いえ。今日はもうこのあと空いています。大丈夫です」

その言葉に、由紀子はほっと胸をなでおろしたようだった。

「ありがとう……ありがとう、湊さん。あの子に、たまに水を飲ませてあげて。
本当に、それだけでいいから」

一瞬、迷うように璃子のそばを見て、そして足早に部屋を後にした。
家には再び、二人きり。

ソファに横たわる璃子と、ショパンの残響をまだ宿すピアノ。
ゆっくりと、静かな時間が流れ出した。
< 96 / 217 >

この作品をシェア

pagetop