触れてはいけない距離

誰かの名前を呼ぶ勇気

 崇が帰らない夜は、いつもより家が広く感じた。リビングの時計の針だけが、静かに刻みを進める。

 朝の会話も、連絡もない。時間だけが、音もなく過ぎていく。こんな夜は何度もあったはずなのに、今夜はどこか違った。

 ――湊が、家にいる。

 その事実だけで、室内の空気の密度が変わる。いつも冷たく感じるリビングの蛍光灯が、今夜は柔らかく揺らめくように温かかった。

 湊はキッチンで食器を片づけている。シンクに水が落ちる小さな音が響くたび、綾乃の心がざわめく。そのざわめきをやり過ごすために、意味なく指を絡めた。なにも持たない手で、なにかを握りしめるように。

 無意識に崇の居場所を確かめようとして、スマホに目をやる――けれど、画面は静まり返っていた。

(……いないなら、話をしてもいいんじゃない?)

 自分でそう思った瞬間、心の奥がわずかに震える。声をかけるだけ。ただ、それだけなのに、息が詰まりそうになる。

 足が勝手に動いていた。キッチンの手前、廊下の影に湊の後ろ姿が見える。
グラスを洗っているのか、水の音と彼の背中が、綾乃の視界をゆっくりと染めていく。

 ――名前を呼べばいい。それだけで、なにかが変わる気がした。

「……湊くん」

 音のない空間に、自分の声だけが響いた。

 湊の背中が静かに止まり、振り返る。その瞳には驚きではなく、ずっと前から待っていたような覚悟の光が宿っていた。

「はい」

 たった一言の返事が、綾乃の胸の奥に真っ直ぐ落ちてくる。そこでようやく、自分が“踏み出してしまった”ことに気づいた。

(もう、戻れない。この一歩を踏み出した瞬間から)

 けれどそのことに、不思議と恐怖はなかった。ただ、目の前にいる彼とちゃんと向き合いたいと、そう思っただけだった。

 こんなに静かな夜なのに、心臓の音だけが煩わしく鳴り続ける。

 湊がこちらへ歩いてくる。たった数歩の距離が、こんなにも長く感じるとは思わなかった。名前を呼んだのは自分から。なのに、足元が急に不安定になる。

 彼の気配が近づく。体温のようなものが、空気に溶けて漂ってくる。

「どうかしましたか?」

 いつも通りの声。でも、どこか優しさが滲んでいた。その問いかけに、綾乃はすぐ返事をできなかった。

 喉が熱く、微かに震えている。

「なにかを言おう」と思っていたのに、口にできる言葉はどれも足りなく思えた。代わりに出てきたのは、こんなにも弱い言葉だった。

「……少しだけ、一緒にいてもらえますか?」

 自分で言った瞬間、心臓が跳ね、喉の奥でなにかが詰まった。けれど湊は驚く素振りも見せず、ただ静かに頷く。その仕草ひとつで、胸が震えた。

 リビングに戻ると、湊は黙ってソファの端に腰を下ろした。綾乃もその隣に、そっと腰かける。間には毛布と、わずかな空間。

 沈黙が流れる。でも、重苦しくはなかった。

「兄貴、今日は帰ってこないんですね」

 ぽつりと湊が言う。あまりに自然な言葉で、それを“責め”とは感じなかった。ただ、現実としてそこにある事実だった。

「……ええ、きっとまた急な仕事じゃないかと……」

 嘘ではない。だけど言いながら気づく。自分はもう、崇の予定を心から気にしてはいなかった。

(それって――いけないこと、だよね)

 どちらかが欠けた家庭。その穴を、彼に埋めてほしいなんて思ってはいけない。けれど求めてしまう。この沈黙の夜に、寄り添ってほしいと願ってしまう。

 ふと、視線が交わった。

 湊はなにも言わない。ただ見つめるだけ。そのまなざしに、綾乃はなぜか胸が締めつけられる。

「……ねえ、湊くん」
「はい」
「もしわたしが、間違えそうになったら……止めて、くれる?」

 言葉が震え、自分が他人になったような気がした。湊は目を細め、静かに首を振る。

「それは……俺にはできない。綾乃さんが選ぶなら、誰も止められない」

 返された言葉は、優しさよりも痛みを含んでいた。

(選ぶ……わたしが、“選ぶ”……?)

 その意味が、胸の奥にじわじわと染みていく。逃げていたつもりはなかった。けれど、ずっと曖昧にしていた。

 今夜、名前を呼んだことで、その猶予が終わった気がした。 静かな夜は続くのに、高鳴った心臓の音だけがいつまでもやまない。
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