触れてはいけない距離

壊したいほどに、傍にいた

 静けさが家を包む。まるで音のない湖の底。なのに湊が隣にいる。その事実だけで、胸がざわめいた。

 テレビは消えた。時計の秒針が、微かにカチカチとリビングに響く。それなのに、綾乃の胸は静かではいられなかった。

 湊の言葉がまだ耳に残る。『止められない』――優しさに似せた、残酷な一言。

(でも、それがきっと……正しい)

 誰かのせいにできたら楽だった。たとえば、崇が冷たいから。湊が優しいから。そんなふうに、言い訳ができれば――。

 けれど結局、自分が「名前を呼んだ」その事実から、もう逃げられない。

「湊くん、今夜……ここで、寝て」

 口にした瞬間、喉が震え、自分でも驚いた。なにも“そういう意味”ではない。けれど、それでも自分が誰よりその言葉に戸惑った。

 ソファの端に残された毛布に目を落としながら、綾乃は声を重ねる。

「わたしが――勝手に不安だから。ね、お願い……」

 湊は一瞬だけ瞼を伏せ、唇を軽く噛んでから小さく頷いた。

「……わかりました。じゃあ俺、毛布もう一枚持ってきますね」

 それだけ言って、彼は静かに立ち上がる。ドアの向こうへ消えるその背中を見つめながら、綾乃は息を吐いた。

(逃げなかった。初めて、逃げなかったんだ)

 なにかを選んだわけじゃない。まだ、その一歩手前。けれど、沈黙に飲み込まれるだけの夜にはしなかった。

 毛布を取りに行く彼の足音が、床を軋ませながら微かに遠ざかる。ひとりきりのリビングで、綾乃はそっと目を閉じた。

“選ぶ”ことの重さが、胸を締めつける。怖いのに、どこか解放された気がした。

 でもこの夜を超えなければ、前には進めない。それだけは、わかっていた。 静かなリビングで心臓の音だけが、いつまでも響く。
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