触れてはいけない距離
***

 ソファの背を倒したベッドの上で、厚手の毛布が体を重く包んでいた。隣の空間に、湊の静かな呼吸が漂う。背中合わせのように互いを背にして会話もなく、ただ同じ夜を過ごしている。

 この距離が、限界だった。

 触れたわけでも、見つめ合ったわけでもない。ただ、彼がそこにいる。それだけで綾乃の心は静かに、だが確実に溶かされていく。

(――こんな夜、知らなければよかったのに)

 思ってしまった。特別なことはなにもない。湊はソファに寝転がり、静かに呼吸している。それなのに、胸の奥でなにかが壊れる音がする。

(崇さんと過ごしていた夜には、なかった……この、呼吸のしやすさ)

 誰にも見せられない弱さが、こうしていると、ほんの少しだけ許される気がした。なにも聞かれないことが、こんなにも心を救うなんて。

「……湊くん、起きてる?」

 囁きが夜の静けさに溶けた。返事はない。でもそれでよかった。返事があれば、なにを言ってしまうかわからなかった。

(この気持ちは、誰のせいでもない。わたしが、選びたくなってしまっただけ)

 思えば、崇に「さみしい」とすら言えたことがない。強くて、正しくて、傷つかない女であろうとするほどに、声を失っていった。

 けれど、湊の前ではなぜか、黙っていることすら苦しくなる。言葉にしなければ、気持ちがあふれてしまいそうになるから。

 目を閉じれば、手の届かない距離にいる彼の横顔が浮かぶ。触れたくないわけじゃない。触れてはいけないだけ。

(もし、今、あの手が伸びてきたら――)

 自分は拒めるだろうか。胸の奥で、なにかが壊れるのを待っている自分がいた。

 答えを出す前に綾乃は息を詰め、拒めるか確かめるように胸に手を当てる。

 眠れそうにない夜だった。だが、どこか静かな安心が胸に広がる。この夜を越えなければ、選ぶことはできない――それだけは、わかっていた。
< 28 / 45 >

この作品をシェア

pagetop