触れてはいけない距離

この手から零れないように(後日譚)

 窓を細く開けると、朝の風が柔らかくカーテンを揺らした。春が、そっと近づいている。まだ冷たい空気の中に、ほんの微かな温度の変化が混ざっている。

 綾乃は湯呑みを両手で包みながら、深く息を吐く。なにげない日常が、そっと色を変えていく。

 湊のいた客間はそのまま。空いた棚に朝の光が落ちる。なにかが大きく欠けたわけではない。ただ“気配”がしんと薄まっていった。

 それが現実だった。綾乃はそれを、もう受け止めている。

 あの夜、崇がそっと手を差し伸べてくれた。言葉はない。だがあのとき、確かになにかが変わった。

 「……コーヒー、淹れようか?」

 後ろからかけられた声に、綾乃は小さく振り向いた。エプロンをかけたままの崇が、少し不器用に笑う。以前よりも少しだけ、目の奥に柔らかさが宿っていた。

 「ありがとう。飲みたい」

 たったそれだけの会話なのに、綾乃の胸の奥がふっと温かくなる。この穏やかな時間が、どれほど遠かったか――そして、今どれほど大切か。

 マグカップから白い湯気が立ち上る。向こうで崇が椅子を引く音。リビングにコーヒーの香りが漂う。

「……もう、大丈夫?」

 問いかけではあったけれど、彼の声に詮索の色はなかった。綾乃はしばらく黙っていたが、そっと頷いた。

「うん……少しずつだけど」

 その“少しずつ”を、崇は受け止めてくれる。そう、信じられる。

 夫婦という形にすぐに戻れなくても、“ふたりの時間”を一緒に重ねていくことはできる。

 カップをそっと口元に運ぶ。少し苦くて、少し優しい味がした。

「崇さんが淹れたコーヒー、やっぱり好き」

 そう口にすると、彼は照れたように目を逸らした。けれど次の瞬間、不意に綾乃の指先に自分の手を重ねる。

 静かな沈黙。でも、もうそれは“孤独”ではなかった。

 ――この手から零れないように。綾乃はそっと指先を返して、そのぬくもりを握り返した。




 カップを手にした綾乃の指先は、どこかまだ頼りなげだった。けれど、こうして傍に座る彼女の姿は、確かにここに“いる”と伝えてくれていた。

 もう、かつての綾乃ではない。自分も変わった。

 湊の姿が家から消えた日。綾乃が言葉を失ったまま、リビングに座っていたのを今でも覚えている。彼女の瞳が空を映しているようだった。

 “あの日”から自分の中に残っていたものに、ようやく名前がついた。

 ――恐れだった。

 彼女が、自分の手の届かない場所へ行ってしまうかもしれないという、どうしようもない不安。それを口にするには、あまりにも不器用すぎた。

「崇さんが淹れたコーヒー、やっぱり好き」

 不意に綾乃が言ったその言葉に、不覚にも胸が熱くなる。

 彼女はまだ、自分の淹れるコーヒーを“好き”だと言ってくれた。それだけで、救われた気がした。

 指先をそっと重ねる。もし彼女が離れたがっていたら、この手は振り払われるかもしれない。そんな思いも、ほんの一瞬だけ過った。

 けれど綾乃は、その手を握り返してくれた。ぎゅうっと、確かに。

(もう、言い訳はしない)

 沈黙の奥に、語れていないことがある。それでも、この沈黙すら愛おしいと思えた。

 もう一度、彼女の心に触れるには、時間が必要だろう。それでも――。

「……ありがとう」

 ぽつりと呟いた声が、コーヒーの湯気に溶けていった。彼女に届いたかはわからない。けれど、今はそれでよかった。ここに彼女がいて、自分も隣にいられるのなら。

 湊の気配が薄れた朝に、新しい時間が静かに始まる。ふたりの温かな未来が。

おしまい

☆違う選択をした別の話を考えてみました。
アナタはどちらの結末がお好みでしょうか?
次回に続きます!
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