触れてはいけない距離

越えてしまった夜

 カーテンの隙間から、淡い朝の光が差し込んでいる。けれど、どこまでも鈍く、冷たい世界に見えた。

 隣にいたはずの湊の気配は、既になかった。

 客間のベッドにシーツの皺。微かな香り。昨夜の痕跡が静かに残る。

(……取り返しがつかない)

 湊の手に触れた瞬間、心の奥底に閉じ込めてきたなにかが一気に崩れた。名前を呼ばれる声の温度にどうしても抗えず、彼に縋りついてしまった。

 けれど、だからといって、それが“正しさ”になるはずもなくて。

(――わたしは、崇さんの妻なのに)

 身体を抱きしめた湊の腕は、優しさでできていた。それなのに、終わったあとに胸に残ったのは、どうしようもない罪と虚しさだけ。

 扉の向こうから、誰の足音もしない。あの家のどこかで、崇はいつも通りに時間を過ごしているのかもしれない。

 だけど、もう昨日までの自分には戻れないとわかっていた。たった一度の過ちが、すべてを壊した。

(湊くんも、きっとわかってる。これは、“なかったこと”にはできないって)

 言葉も、涙も出なかった。ただ、胸の奥でなにかが静かに崩れていくのを感じていた。

 崇がもし、この事実に気づいてしまったとき――そのとき、自分はどんな顔をして立っていられるだろうか。
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